令和の雪鯨橋 瑞光寺で落慶 大阪市東淀川区 | ||||||||||
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鯨の供養にと太地からの鯨骨でつくられた大阪市東淀川区の瑞光寺の雪鯨橋。令和の時代の始まりを期して架け替えられた七代目の橋の落慶記念法要が、5月16日、「鯨の町」和歌山県太地町の小学生らを迎えて行われた。 鯨の供養から生命のつながり伝え七代目瑞光寺は阪急京都線上新庄駅から商店街を通り抜け、内環状道路の手前にある街中の寺だが、白隠禅師が座主を務めた臨済禅の名刹。江戸中期の宝暦6年(1756)に南紀の太地浦を行脚していた潭住禅師が、不漁に苦しむ漁民から頼まれ、殺生禁断の教えとのはざまで悩みながら豊漁を祈願。貧困から救われた漁民から寄進された鯨の骨で供養として橋を築いたと伝えられる。本堂前の池を渡る石橋(長さ6m、幅3m)があり、その欄干に鯨骨が使われている。さらに側面の扇形の部分は肩甲骨、手すりは下アゴ骨、手前の支柱が脊髄。ゲート風の山門は下アゴ骨で、鯨の大きさが実感できる。先代の橋は2006年(平成18年)に架け替えたが、13年で劣化が進んだ。2008年に訪ねた時は雪鯨橋の名の通りだったが、今年4月には相当黒ずみ、ささくれだっていた。「大気汚染や酸性雨など環境の変化に加え、橋のたもとの桜の樹液の浸透などが要因か」ともみられているが、同寺では少し早めながら、改元を機に、以前から太地から調達してもらっていたイワシクジラの骨で架け替えた。 ◇太地小6年生が伝統の鯨踊り奉納 落慶法要の先陣を切るのは太地小の6年生15人らによる鯨踊りの奉納。修学旅行で14日から奈良、京都、そして大阪の海遊館やUSJを回り、最後に大役を果たすため瑞光寺を訪れた。雪鯨橋前前に法被姿でそろった15人。鯨踊りは、紅白の筒「綾棒」を打ち振る綾踊りから、法被を脱いで素手の動きも見せる魚踊りに展開するが、いずれも鯨漁を表現する所作を、力強い掛け声とともに乱れなく演じ上げた。太鼓方は引率の先生が務めた。 ここで演じた鯨踊りは子ども向けバージョンといったものではなく、基本は保存会員の指導を受けた伝統の踊り。古式捕鯨を創業した和田家の末裔・和田新さんは「古式捕鯨にねざした鯨踊りを小学生から受け継いでいることはうれしいです」と話していた。 運動会で披露するため4年生になると練習。6年前からは毎年修学旅行で瑞光寺に寄って演じており、6年生はその前に特に時間をかけて稽古するという。宇佐川彰男教育長は「鯨踊りはもちろん、鯨肉の給食、くじらの博物館の見学などを通して、太地の子供たちは自然な形で、人と鯨のつながりを学んでいます」と話していた。 落慶法要には太地町出身者や地元の人々を含め50人が参列。遠山明彦住職の読経、焼香に続いて、橋の渡り初め=写真右。参加者は散華の花びらをまき、赤絨毯の敷かれた橋を渡った。大役を果たした児童も続き、雪鯨橋の欄干の感触を確かめていた。 「太地とは263年のつきあい。今回の架け替えで新たなつながりが始まります」とあいさつした遠山住職。児童に向かって「新しい令和の時代をつくっていくのは、あなたがた。人間のために犠牲になっている他の動物の生命をありがたくいただいて、がんばって生きていってください」と語りかけた。 ◇7月に商業捕鯨再開、理解の広がりに期待 7月1日から日本の商業捕鯨が再開され、「鯨の町」太地町も新しい局面を迎える。町の鯨政策を担当する産業建設課の瀬戸睦史課長は「商業捕鯨再開に先立つ雪鯨橋架け替えが、鯨についてもっと知ってもらうきっかけになれば。外国の人を含め多くの観光客が太地に来て捕鯨に理解を深めてほしいです」と話していた。 鯨の味になじんだ世代としては「これで鯨肉が手に入りやすくなるのでは…」という期待もあるが、反捕鯨運動以前に、一般の日本人でも鯨離れが進んできているのが現況。商業捕鯨が軌道に乗るには漁だけでなく流通、消費を含め克服すべき課題も多いと思う。太地町だけでなく、東日本大震災で大きな被害を受けた宮城県石巻市鮎川など捕鯨が地域を支えてきたところも多い。幸先の良い船出を願っている。 (文・写真 小泉 清)=2019.5.16 ⇒トップページへ |