炭焼き、大根、育牛…貸農園の名アドバイザーに                                
  笠形山山麓のネイチャーパーク笠形では18年前から農園つき別荘を年契約で貸し出し。20戸のうち18戸を阪神圏の家族が借りている。4月29日の登山に参加していた70代の女性は宝塚から週1回車で通い、野菜作りをしている。大屋区長の市位裕文さんによると、地元の人たちや、借り手どうしのコミュニケーションも活発で、別荘から発展して空き家を借りて定住を始めた人もいるという。

  貸農園が始まった時から、借り手の都市住民に野菜の作り方などを基本から教え、頼りにされてきたの
藤田克治さん(86)。別荘付属の貸農園だけでは足りないと、熱心な利用者が別に借りている農園前の畑で、万願寺トウガラシやナスビの植え付けをしていた。

 ◇高温の窯で焼き上げた広葉樹の白炭

  終戦の時、藤田さんは14歳。父が病に倒れたため長男として炭焼きなどで家を支えた。和歌山県の紀州備長炭に使うウバメガシではなく、地元の山に豊かに育っていたミズナラやクヌギなどの落葉広葉樹。3000度もの高温になる窯の中に木を放り込んで焼き、窯口から外に取り出して消火した。別の穴から出る煙の色で温度を判断した。大屋の炭はこの製法の白炭がほとんどだったが、枯れた松の木を使った黒炭では、自分自身が水をかぶって窯の中に入って炭を取り出した。炭焼き小屋に泊って焼くのではなく、裏山から笠形山の上までいろんな場所に窯を作って、シーズン中は日々通った。

 焼いた炭の見本は自転車で西脇の問屋に運んだ。戦後しばらくは炭は冬の暖房の主役、京都の茶道の家元や大阪・堂島の名店でも重宝された。耕地の少ない大屋では江戸時代から炭焼きが盛んで、大屋炭と呼ばれて舟で加古川を下って運ばれ、灘の酒造りにも使われたという。長年積み上げた信頼もあったのだろう。

 当時は広葉樹林がずっと深く、笠形山から流れ落ちる谷川にはアマゴがいっぱいいて地元ではヒラメと呼んでいた。カワウナギも奥まで遡ってきて、美味しかった。広葉樹の落葉が豊富にあったから、魚のえさとなる虫が育つことができた。

 しかし、昭和30年代に入って経済成長が続くと、炭の需要は減少の一途をたどった。一方で国の拡大造林の政策で杉やヒノキの植林が進められ、広葉樹林は伐採されていった。その時に伐られたナラやクヌギを焼くのが、炭焼きとしての藤田さんの最後の仕事となった。

   ◇冷涼な気候生かし良質な牛肉や大根

 炭焼きに限らず、藤田さんはさまざまな仕事に取り組んだ。大根づくりを熱心に研究し、旧野間谷村の品評会では何度も表彰された。自分の田だけでなく、広い範囲の刈取り作業などを引き受けた。播州織の工場も経営した。

 肉牛10頭を飼っていたこともあった。生まれたばかりの子牛を買入れ1年間肥育して、若齢牛の肉とする飼い方だった。耕運機の普及で牛が農耕用に使われなくなってきたため、こうした若齢肥育が広がっていた。大屋地区は夏涼しいので、牛の食欲は夏場も衰えず、いい肉になると市場の評価も良く、藤田さんは意欲的に取り組んだ。しかし、農協が飼料の購入や牛の買入れ資金まで規制を強めてきて、生産者より組織の利益を優先することを感じ、育牛から撤退した。

   ◇多彩な経験、利用者の個性や状況見て助言 

 貸農園の開始以来、自然と利用者の相談が集まるようになった藤田さんだが、「栽培も自分流にやりたい人が多く、アドバイスと言っても、いろいろ兼ね合いがある」という。定年退職後に農園を始めたが、「歳を取って車で通うのがしんどくなってきた」と辞める人もでてきている。

  状況の変化はあっても、藤田さんは利用者の農作業を温かく見守っている。浮き沈みはあっても、大屋の地ならではのいろんな分野の仕事に取組み、研究を続けてきた豊かな経験が信頼を呼ぶのだろう。

                         =2018.4.29取材 (文・写真  小泉 清)
              
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