多田等観展から観音山へ 岩手県花巻市 | ||||||||||
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大正時代の10年間、チベットの僧院でチベット仏教を修行し、最高の学位を取得した多田等観。その等観がチベットから持ち帰った仏具や、後にダライラマ13世から贈られた絵伝を収蔵しているのが岩手県の花巻市博物館だ。「没後50年 多田等観展」=写真下=最終日の8月20日、同館と彼が愛した観音山を訪ねた。 チベット修行10年 人々の支えで結実展示をもとに、学芸員の小原伸博さんが丁寧に説明してくれた。「チベットに捧げた人生」と副題がつけられているように、等観の76年の人生に沿って豊富な資料が集められている。秋田市の浄土真宗本願寺派の西船寺の三男に生まれた等観は、秋田中学を卒業後京都へ。大谷光瑞門主の命で、ダライラマ13世が派遣した留学生の世話係となりチベット語を習得した。その後留学生の帰国に付き添った等観は、光瑞の命で1913年にチベット入り。ダライラマから寺院に入って修行することを命じられた。セラ僧院で10年学び、外国人で初めてゲシェー(仏教博士)という難関の学位を授与されて帰国した。 ◇ダライ・ラマの信頼で仏教の至宝請来持ち帰った大蔵経やチベット仏教の仏具、僧衣、仏画などが展示のメインになっているが、なんといっても釈迦の生涯を説話を描いた25幅の「釈迦牟尼世尊絵伝」だろう。帰国を前に等観が所望、ダライラマの遺命で昭和12年に送られてきたものだ。チベットでの修行10年とダライラマからの信頼がもたらしたこうした文物はすばらしいが、32歳で帰国してからの等観の生き方にもひかれる。その時、光瑞は財政問題などで門主の座を去っており、等観を迎えた本山の姿勢は「一種のまま子扱い」と書くほど冷ややかだった。 しかし、ここで等観を支えた人がいた。浄土真宗の近代化を進めた島地黙雷の養子となり、盛岡の願教寺住職を継いだ島地大等。東京帝大講師としてインド哲学を教えた。等観がチベットで経典を収集する時から助言をしただけでなく、東北帝大でチベット仏典の研究・整理を続けていく道筋をつけた。 回り道はあっても、等観はチベットから持ち帰った大蔵経や仏教関係書を目録として完成し世界のチベット研究に寄与。東京大、慶応大で後進の育成もしたので、チベットの10年を結実させたといってよいだろう。ダライラマ13世にせよ島地大等にせよ、等観には「あの男を応援してやりたい」と思わせる性格だったのだろう。 実のところ、多田等観の名は、私も近年まで知らなかった。2013年に西本願寺前の龍谷ミュージアムで開かれた「もうひとつの大谷探検隊」の中で取り上げられ、「こういう人がいたのか」と驚いた。 その点では、等観より13年前に鎖国状態だったチベットに単身で入り、小学校の教科書にも掲載されていた河口慧海の方が華やかさがある。ラサでも日本人であることを隠し通し、身元が露見しかかると、機転をきかせて危うく脱出…という冒険談も人気を呼ぶのだろう。 それに比べると、等観は教団の決定で出入国しており、「自分からチベットに行こうと思ったのではなく、まわりの事情からチベットで10年いることになった」と述懐している。しかし、こうした「自分の置かれた状況を受け入れて適応していく」柔軟な姿勢が周囲の共感を呼び、チベット研究者として大成したともいえる。 ◇経典の疎開で縁、山上の庵で起居もさて、秋田出身で帰国後は千葉県に住んだ等観の集めた文物が、なぜ花巻にあるのかというのが疑問点だった。小原さんに尋ねると、等観の弟が花巻市の光徳寺に養子で入って住職となっていて、大戦中、等観がチベット経典などを疎開させたことがきっかけ。花巻の市街地も空襲の恐れが出てきて、一部は花巻市西郊の観音山近くに移された。等観は、この観音山をことのほか気に入り、山頂に「一燈庵」を建ててもらい、昭和26年に渡米するまで度々ここで過ごした。観音山は坂上田村麻呂が馬頭観音を勧請した円万寺が建つが、荒れていた観音堂の本尊としてダライラマ13世からの十一面観音像を寄贈するなど山内の整備に尽力。麓の湯口地区の人々と酒を酌み交わしたり、とれたての野菜をもらったりして、村人も「等観先生」と呼んで親しんでいたという。 館内の展示に、「一燈庵」の前に等観を囲んで村人が集まる写真があった。等観がサンフランシスコのアジア研究所に招聘されて渡米する前に壮行会を開いた時の記念写真。その中にあどけなさの残る少年が写る。畠山博志さん=写真右、花巻市博物館で=、等観を直接知る数少ない人だ。「観音山を守る会」の中でも等観の顕彰を続けてきた。 等観展最終日のこの日は、湯口地区で伝えられてきた円万寺神楽が博物館ホールで行われ、畠山さんに話をうかがえた。畠山さんが等観と写真に納まったのは、地元の高校に通っていた18歳の時。「『チベット語を教えてください』とお願いした時、『こんにちは』から丁寧に教えてくださいました。相手が子供だからといって目下に見ることなく、同じ立場で話されたことを今も覚えています」と振り返った。 等観が昭和42年(1967)に76歳で亡くなってからも、家族との交流は続いた。「地元でも等観先生のことを知らない人が増え、昨年の50回忌を前に『観音山と等観さんのつながりがよくわからない』と慶讃法要実施をためらう声もありました。しかし、どんなに観音山のために力を尽くされたかを文にまとめて説明し、法要を行うことができました」 博物館から車で35分ほどの観音山を訪れた。八坂神社の鳥居をくぐって狭い車道を上がると標高180mの観音山山頂=写真左=に達し、美しい田園風景が一望できる。水田のところどころに「えぐね」と呼ばれる防風の屋敷林が見える。等観の住んでいた一燈庵はそのまま保全され、等観とのつながりを記した説明板が建てられていた。 庵のまわりには地元の人々や小学生によってアジサイが植えられている。関西では7月中旬で散った青い花が、ここではまだ残っている。いろんな野鳥が飛んで来て、等観が観音山を気に入ったのもうなづける。 ◇光太郎と交遊、賢治とつながりも仏典や仏具は等観の渡米を機に光徳寺に設けられた収蔵庫に保管されてきたが、仏画などに劣化のおそれが出てきたので、花巻市に寄贈。花巻市博物館では例年、等観の誕生日の7月1日前後の1か月間コレクションを公開してきた。花巻といえば宮沢賢治。等観は直接の交流はなかったが、戦後、父政次郎と一緒の写真があった。「父が浄土真宗の熱心な門徒だった賢治が法華経に傾倒したのは、島地大等の影響が大きく、賢治と等観は大等を通じてつながりがありました。チベットを舞台にした童話も書いています」。戦争中に詩人の高村光太郎が疎開していた山荘は観音山の近くで、二人はよく行き来、交わしたはがきも展示していた。 ただ、生まれ育ったのが秋田市なので、『等観は秋田の人』という見方もあり、花巻市さらには岩手県でも、等観の名はそう一般的でないのが現実という。小原さんは「龍谷ミュージアムで業績の研究が進み、出身地の秋田県では『郷土の偉人』としての見方が高まって、全国的にも等観が再び脚光を浴びてきています。花巻で守られてきたコレクションからも、生涯を通じてチベット研究を積み重ねてきた等観を広く知ってもらえれば」と話している。 (文・写真 小泉 清) ⇒トップページへ |