三多気の桜と伊勢本街道 奈良県御杖村~津市 |
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真福院の参道から山桜の花越しに望む大洞山
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・花期 3月下旬~4月中旬 ・交通案内 近鉄大阪線名張駅から三重交通バスで敷津下車 。直接、三多気に行く場合は杉平下車(本数は少ない) ・電話 津市美杉総合支所(059・272・8085) =2016年4月9日取材= 松線全線再開祝う開花、新たな広がりに期待 大阪・玉造と伊勢神宮を結ぶ伊勢本街道。奈良県東端の御杖(みつえ)村敷津から国境を越えて三重県津市奥津(旧美杉村)まで歩いた。山桜の名所「三多気(みたけ)の桜」をはじめ里桜、菜の花などさまざまな花が室生火山群の山々を仰ぐ街道沿いに続いていた。 ◇姫石の峠越えて大和から伊勢へ 名張駅からのバスで1時間、敷津に下りた。ここにで下りるのは14年ぶりだが「道の駅」や温泉施設「姫石の湯」ができて結構にぎわっている。今回は見るだけで街道を東へ向かった。田園の中を通り、小山に桜の植えられた丸山公園に寄って岩坂峠(495m)を越える。そう目だたないが、大阪湾に向かう名張川水系と伊勢湾に注ぐ雲出川水系の分水界だ。薄暗い杉林の中を下っていくと、姫石(ひめし)明神という祠がある。裂け目のある自然石の前に小さな鳥居も建てられている。倭姫命(やまとひめ)が婦人病の回復を祈願したという伝承があり、かつては女性の参拝者も多かったのだろう。自然石も少し地味でひっそりしているが、この「姫石」が御杖村の健康温泉施設の名になっていることは本望だろう。 杉林を抜けて小川にかかる橋を渡ると「三重県」の道標。再び竹林の中の小道を通ると、杉平の集落に入り、伊勢神宮御用を示す「太一(たいいつ)」の文字が刻まれた常夜燈が今も残る。これで伊勢の国に入ったことが実感できる。 ◇花が溶け込む秀峰と豊かな田園風景 街道は国道368号線に合流し、杉平のバス停に着いた。ここから街道を離れ、名刹・真福院の参道沿いに500本の桜並木が続く国の名勝「三多気の桜」を見に上がる。青空に高く伸びた枝に花が広がり、花の向こうには大和、伊勢、伊賀にまたがる室生火山群の秀峰・大洞山(1013m)がたおやかな山容を見せている。2、3日前の風雨ですでに散った花がもあり、遠くから眺めるとやや寂しげだが、山桜は花に先駆けて芽吹く葉も魅力的だ。苔むした老木の幹にも新しい小枝が生え若い葉がいっぱい出ている。 参道の両側には棚田など田園の明るい風景が広がる。山桜はその中に溶け込んでいる。きれいにうねる緑の茶畑が続き、ところどころ菜の花が輝く。古木のかたわらに茅葺き屋根の家があった。「雨漏りがしてきたのでトタン屋根をかぶせようとしましたが、『費用はかかってもやはり桜には茅葺きの屋根を』と京都の美山から職人を呼んで葺き替えました」という話を以前家の人から聞いたことがある。 ◇地元の食材、餅まき準備、にぎわう「桜まつり」 9、10日の土・日は「三多気の桜まつり」が開かれていて、中程の広場では、地元のおかみさんらが、あまごめしやなど地元の食材を生かした弁当や自家製味噌などを販売している。「ここにしかない、血糖値にいい菊芋団子」とアピールしているおばさんもいる。街道沿いのためかものおじしない人が多いようだ。 桜を眺めながら1キロほど歩いて真福院に着いた。鳥居をくぐって石段を上がって行くと山門前の左側に幹回り6. 1mという大ケヤキ、右側には幹周り10mを超す巨大な杉が空に伸びている。山門をくぐると満開の枝垂れ桜が迎えてくれた。その手前では男衆が餅をつき、寺務所の中ではおかみさんたちが赤、貴、緑に染めた丸餅をつくっている。「あす(10日)餅まきをするのにつくってるんです。来年は餅まきの日に来て」と明るく言われた。 ◇1100年、時代の変化乗り越えて並木伝わる 真福院は約1100年前、京都・醍醐寺を開き、修験道中興の祖として大峯・吉野にかかわりの深い理源大師の開基とされる真言宗の寺。三多気の桜も理源大師が植えたのが始まりという。 櫻まつりの日には本堂の蔵王権現が拝観できるので、参拝者が石段を上がって並んでいた。この石段をひょいひょいと元気に上がっていくのが93歳の松本俊彰住職。20年ほど前に大ぼら山から下山したときに訪ねて以来何回かおめにかかっているが、ますますお元気だ。 14世紀の南北朝の時代、この地域一帯は南朝を支えた北畠氏が拠点とし、真福院も一族の祈願所となった。南朝の伊勢国司となった北畠顕能(あきよし)は、ここから9キロ東に霧山城と館を築き、街道沿いにも山桜を植えたとの言い伝えが残る。 ともに吉野とかかかわりの深い理源大師から北畠氏へと植え続けられた桜並木。後に北畠氏が織田信長に滅ぼされた時、館も寺も完全に破壊されましたが、桜並木はその後も大切に引き継がれたという。「『三日の花』だけでなく、桜の葉のつくりだす木陰が道を上り下りする人に涼しさとやすらぎをもたらすなど、地元の人々の暮らしの中で生きてきたからこそ、水と空気のきれいな環境の中で長く残ったのでしょう」というのが松本住職の見方だ。 北畠氏といえば顕能の父・北畠親房が「神皇正統紀」を著して南朝の正統性を理論的にアピールし、吉野とつながり、東国とも海路で開かれた伊勢を基盤に南朝の軍事行動を支えたことで知られる。乱世の中に「正しい道理」を求めた北畠一族への後世の評価も、この山桜の並木を今まで伝えてきたのかもしれない。 この由緒ある三多気の桜も老化が進んで枯れたり台風で倒れたりする木が増え、2000本とうたわれた本数も500本までに減った。ソメイヨシノと比べずっと寿命が長い山桜だが、それでも老いが隠せない木も見られる。その一方で、囲いに囲われて育てられている幼木もあった。「成長の早いソメイヨシノの木を植えたこともありましたが、病気に弱いなどの問題が出るので、山桜のほかには枝垂桜を植えています」とのことだった。 93歳になっても車の運転に支障なく、時代の変化にくわしい松本さんの話では、三多気の桜は新たな形で脚光を浴びている。「桜の名所はあふれていても山桜の名所は少ないので、三多気の桜を知らなくても山桜のネット検索で知り、思い立ってすぐ来る人が多くなっています。ドバイなどいろんな国の留学生も来ます。フェイスブックやツィッターなどでその日の情報がすぐ広がるのは面白いですね」。松本さん自身はこうしたSNSはやってないが、寺に来る若者らと話してっスマホでのやり取りを自然と見ているうに気付いた。 真福院から大洞山登山口まで上がり、中太郎庄から上がってくる旧道をしばらくたどって西蔵王堂まで下った。このあたり戦前は三多気と並ぶ桜の名所だったが、戦争中に切られてしまったという。 ◇街道沿いの家々に屋号の提灯と花々真福寺に戻って参道を引き返して牛王田公園経由で再び伊勢本街道に。払戸、石名原を経てJR名松線の伊勢奥津駅まで4・5キロを歩いた。一部は国道と重なるが、大半は旧道をたどるので車の騒音もなく淡い緑を帯びた白い里桜が、ところどころで満開となっている。地区ごとに建てられた常夜燈や石の道標、庚申堂が現われるので疲れを感じさせない。一戸一戸の家が育てている花々が絶えることなく道筋に続き、屋号を書いた提灯がつけられている。街道筋の家並みでも、これだけ自然と文化の豊かさを感じさせるところは少ないだろう。「治平」という屋号をかかげた民家で花の世話をしているご主人がいた。南北どちらの山からもシカが下りてきて、作物はもちろん花芽を食い荒らすという。畑はフェンスで囲っているが、花も日暮れ前にはネットをかぶせるという。屋号は先祖が受け継いできた「かじや」や出身地に基づく「さぬき屋」などがあるが、この家は先ほど通った庚申堂の世話役を代々続けてきたので「治平」を屋号としているという。 ◇鉄ちゃん集まり満席の列車、沿線も彩豊か 土・休日は上りで1日7本、乗車したのは17:15発松阪行き上り列車で二両編成のワンマンカーだが、ほぼ満席。運転手さんに尋ねると、その前の15:08発の上りは立っている人を含め満杯だったという。カメラを抱えた鉄道ファン=鉄ちゃんが多いようだ。列車は定刻通り出発。雲出川に沿った景色は、ところどころに桜色で彩られ日本の春を感じさせる。踏切から手を振っている親子もいた。家城で下り列車と待ち合わせ、松坂には日没後の18:41着。1時間半近い乗車だったが、長さを感じなかった。 伊勢街道はさらに東に続き、北畠氏館跡庭園など見どころもいろいろある。しかし、三多気の桜名松線のにぎわいが桜のシーズンや全線開通のご祝儀乗車だけに終わることのないように、沿線の人々がさらに工夫をこらしてほしい。 (文・写真 小泉
清) |
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