堅田・居初氏庭園 初冬の湖岸   大津市       

   
                
  
 
     茶室「天然図画亭」から庭園と琵琶湖を見る
  ・時期  センリョウ、キミノセンリョウの果期は11月~1月

・交通案内  
JR湖西線堅田駅から江若交通バスで堅田町内行き末広町下車、東へ徒歩5分。
近くの「湖族の郷資料館」で電動アシスト自転車のレンタルあり。

電話 堅田観光協会(077・572・0425) 、湖族の郷資料館(077・574・1685)                      
                
                               =2014年12月5日取材=        
  中世から琵琶湖の水運・漁業の権利を握る要衝として栄えた堅田。その繁栄を今に伝えるのが堅田きっての有力家・居初氏の「居初(いそめ)氏庭園」だ。茶室「天然図画亭(てんねんずえてい)」からは初冬の透明の大気を通して琵琶湖対岸の三上山もくっきり見える。茶室の戸に描かれた花鳥図、書から蔵に展示された文書や江戸時代から戦前にかけての文物。第29代当主の居初寅夫さん(89)がそのいわれなどを懇切に説明していただいた。

   湖国の風体感 水運の要の繁栄伝わる

 実はここを訪れるのは2012年12月6日に続き2回目。当日に思い立って訪ねた前回、初冬のぴんとした空気が印象に残っていて、同じ季節の朝に再訪した。ゆっくり歩いて迎えに出て来られた居初さんは「あなたと京都の大学のグループで今年は終わり。来年からは私の手で庭の毎日の世話をして公開するのは、もう難しくなりました」。この言葉には驚いたが、「これは目に焼き付けておかなければ…」と一期一会の気持ちで巡った。

 茶室「天然図画亭」は葦葺の入母屋造で、玄関3畳、中の間4畳半、仏間6畳、主室は8畳と1畳の点前畳からなり、船の構造がたくみに取り入れられている。8畳、3畳には腰高障子が入っており、杉戸の腰板には、海北友松作といわれる花鳥が描かれている。歳月で薄れているが、描かれたころを彷彿させる色彩は留めている。「博物館に入れてレプリカを置くという話もありましたが、それはお断りしました」と居初さん。

 庭園は、天和元年(1681)江戸時代の著名な茶人・藤村庸軒と、弟子で地元郷士の北村幽安が作庭したと伝えられる枯山水庭園。幽庵は魚の「幽庵焼き」で今に名を残す才人でもあり、独特の工夫がこらされている。障子をあけて茶室から見渡すと、松、サツキの大刈込み、石垣、そして湖岸の葦の向こうには琵琶湖が広がっている。さらに湖水を隔てて対岸の山並みをのぞむ。中でも三上山は標高432mの低山だが、近江富士と呼ばれるように湖東平野の中に浮き上がるようによく見える。天然図画亭の名にふさわしい、自然をそのまま楽しめる茶室だ。

 庭に下りて敷石の上を歩く。初冬の庭を彩るのはナンテン、センリョウの赤い実、キミノマンリョウの黄色い実。花が少ない季節だけに、ひときわ華やいで見える。

 ◇激動くぐり抜けた名家の存在感示す品々

 堅田が大きな力を持つようになったのは、11世紀に下賀茂神社の御厨(みくりや)になったことから。御膳料として湖の魚を献上する代わりに諸役を免除されるなど特権を得て、堺のような自治組織をつくっていった。その運営の中心となったのが地侍層の殿原衆(とのばらしゅう)で、居初家は最有力メンバーだった。新興の商工業者の全人衆(まろうどしゅう)との争いで殿原衆は一時力を失い、秀吉政権や徳川幕府の政策で、水運の中心は大津に移っていく。それでも、、漁業の発展もあって堅田の繁栄は保たれ、芭蕉など文人が多く訪れ、居初家は江戸時代にも郷士として大庄屋を務めた。

 江戸時代にできた茶室や庭は、こうした激動を乗り越えてきた居初家の幅広い分野での存在感を示すものだろう。さらに興味深いのは「居初家文庫」の収蔵品だ。戦前の米蔵を改装した収蔵庫の1階には江戸時代の書画。庭園ができてしばらくたった時期に描かれた画がある。茶室からは遠眼鏡で対岸を遠望している当主らしき人の姿も描かれている。横長の画には四方に枝を伸ばした立派な松が描かれている。この木は造園の時にすでに樹齢300年で昭和9年に枯れたという。江戸中期の円山派の画家・長澤蘆雪の「韓信の股くぐり」もちょっとユーモラスな画風で面白い。

 書では小林一茶が寛政8年(1796)に訪れた時に詠んだ句の自筆も公開されている。「景々の春色みづから画図に入るが如し」の後に「から崎に我もかすみの一つ哉」など二句が続いている。

 幕藩体制での居初家の家格を示すのが、正徳3年(1714)に初代堅田藩主・堀田正高と子の正峯が居初家19代当主正幸夫婦に送った礼状。春日局の孫にあたる正高は、居初家から南寄りの湖岸に陣屋を構えたが、正峯の養育は居初家に要請、同家が10歳まで預かった。この手紙は正峯が江戸に移った後に親子が書いた感謝の手紙だ。

 2階を中心に保管されているさまざまな道具にも惹きつけられる。江戸時代の刀や家紋入りの陣笠。金箔で装飾された遠眼鏡は、先の絵で描かれていたものだそうだ。漢詩の創作に全国を巡った居初正幸が幕末に結成した結社の同人を記した札、種痘の書の版木など歴代当主が幅広い活動をしていたことがうかがえる。日本最古級の剣道用具とされる幕末期の竹刀や面があり、「風雲急を告げる時代に剣道が奨励された機運を示す資料」として歴史家の評価も高い。

 明治になってからも居初家は五町歩の大地主として続いた。江戸中期から明治まで使われていた大型の木製消防ポンプ(竜斗水)は、大きな家では各戸ごとに備えていたという。居初さんは分家から本家に婿入りしたが、妻の久代さん(91)の母が80年以上前に使っていた小型オーブンも残っている。久代さんは「当時、園芸学を学んだ父は家の管理を地元の人に任せ、各地の学校を転勤していましたが、これは広島県福山市にいた時に買い、ケーキを焼いたりしていたようです」と記憶を手繰り寄せていた。

  ◇第29代当主として半世紀近く管理や公開に尽力

 東京で会社勤めをしてきた居初さんは、義父が亡くなった43歳の時に堅田に戻り、第29代当主として庭園、茶室、文庫の管理、公開を一手に行ってきた。昨年は、茶室の屋根の葺き替えも行った。研究者や学生のグループが調査に訪れることも多く、私のように一人で予約してうかがう場合でも、時間をかけて丁寧に説明していただき、ありがたかった。

 しかし、寄る年波で足腰の調子の悪化が進み、毎日の手入れに庭を回るのも困難になってきたという。2015年以降の管理や公開の方法は大津市教委などと相談していくというが、庭園はそっくり大津市に任せる意向だ。当主として親身に世話をしてきた居初さんの手から遠くなるのは残念だが、やむにやまれぬ判断だったのだろう。居初さんに感謝するとともに、大津市や滋賀県などがこの歴史の宝を大切に守り、生かしていってほしいと願っている。 (文・写真  小泉 清)

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