・時期 ススキ9月下旬~11月上旬 。2014年は10月26日にススキ祭り
・交通案内 車では播但道の神崎南ランプを下り、県道404号線~県道39号線。
公共交通では、JR播但線寺前駅から神姫グリーンバスで終点の川上下車、徒歩30分 。シーズン中は寺前駅~砥峰高原~峰山高原の直通バス(予約制)あり。
・電話 とのみね自然交流館(0790・31・8100) 、神河町地域振興課(0790・34・0971)
=2014年9月27日取材=
NHK大河ドラマや映画「ノルウェイの森」のロケ地として知名度が高まってきた兵庫県神河町の砥峰高原。平家の落ち人伝説が残る川上集落から市川に沿った県道を上がると、前方にぱっと草原が広がる。標高800mから900mにかけてゆるやかな起伏が続く砥峰高原の秋を覆うのは銀色のススキの穂だ。
山焼きで守り続けてきた恵みの茅場
川上地区を中心に運営する「とのみね自然交流館」を起点に一帯を歩いてみた。標準的な周回コースは高低差はあるが距離では3キロ、ゆっくりでも1時間半程で歩け、ほどほどの運動量で、90haに及ぶススキ原の散策をゆっくりと楽しめる。秋の陽光を浴びてきらめく銀穂の柔らかな波。一面を埋めるのはもう少し先だろうが、気分も広々となる光景だ。
◇足元できらりと光る秋の草花
ススキの陰に隠れているようで、しっかり咲いているのは秋の山野草。アザミの花は終盤を迎えているが、アキノキリンソウやツリガネニンジンが足元で顔がのぞかせる。このあたりは大阪近郊の野山でも見かけるが、ところどころに直径1センチほどの真っ白な花。梅を思わせる五弁の整った形の花は、ウメバチソウだ。加賀百万国の前田家の家紋ともなっている「梅鉢」の紋にちなんだ名の花と、この草原で出会えたのは幸運だった。
「草原を飾る花」として起点の説明板で紹介されているリンドウは、9月27日には見られなかった。「周囲の広葉樹林が杉林に変わったため、シカが草原に下りて芽を食べるようになって草原の草花が減っています」という話を以前聞いていたので心配していたが、10月10日に再訪したら周回路の起点から深い青のリンドウの花に次々と出あうことができた。アケボノソウの花はすでに終わっていたようだが、胃病の煎じ薬に薬草として使われるセンブリの花も咲きかけていた。ススキの名所といっても、その中にきらりと光る花があってこそススキも引き立つ。
展望台からは、南側の峰山高原に続く道もあり、健脚の人はそのルートをたどっていく。少し進むと、クリの実が落ち、ミズナラなど落葉広葉樹の葉が少し色づき始めていた。
◇錫の採掘、軍馬の飼育、引き揚げ開拓の歴史も
砥峰高原は200万年以上前の氷河の動きでできたものといわれるが、ススキの原は自然のなすままにできたものではなく、川上の集落の人々が代々守ってきた茅場(かやば)だ。放っておけば低木が侵入して林に替わってしまうところを毎年3月下旬に山焼きすることで、草原を維持しているのだ。
「自然交流館」がオープンした2002年から近年まで管理人を務めていた草壁利光さん(77)に昔の話を聞いた。今から40年くらい前までは毎年1、2軒の茅葺屋根の葺き替えを行い、各戸が頼母子で一担ぎ分の茅を刈って葺き替える家に提供することになっていた。むらの大きな収入源だった炭焼きでも、炭を出荷する袋は茅で作った。
茅を刈れるのは旧暦の11月の第2亥子(いのこ)の日からと決まっていた。このころになるとススキに実がしっかり入っていて、屋根を葺くのに充分な強度が得られるからという。「子供の時、この日が来ると夜が明けないうちにガスランプを持って一家で茅場に上がり、刈り始めました。そのころは茅の背丈が4mと高く、始めは他の家の人が来ているのもわかりませんでした」。山は茅だけでなく、地元の食卓を潤すワラビ、ゼンマイなどの山菜の宝庫だった。山焼きをすることで新芽が伸びやすくなり、灰が土を豊かにするからだ。
約60年前まで錫や銅が掘られていた砥峰高原は、戦前には一時陸軍の命令で軍馬が飼われ、戦後は大陸から引き揚げてきた人たちが開拓団として入り、ダイコンやジャガイモを栽培するなど時代の変遷を映してきた。ブヨが多く、低い気温で作物が実りにくいことから開拓は挫折し、鉱山も閉じられたが、山焼きは大戦中も途絶えることがなかった。茅葺きの家は川上でももう見られないが、兵庫県内の文化財の補修には、砥峰の茅が使われてきた。
◇希少で雄大な草原風景買われロケ地に
こうして守られてきたススキの高原は、県道の延伸や交流館の建設で高原の魅力を知る人が多くなった。大河内町が神崎町と合併してできた神河町の観光の目玉になっている。雄大な景色が買われて、2010年公開の「ノルウェイの森」が撮影されたことで、全国的にも知られるようになった。交流館も大分雰囲気が変わって華やかになり、「平清盛」、「軍師官兵衛」の看板を背にした記念撮影スポットも設けられている。周回コースのどこで撮影されたかを示すロケ地マップも参考になった。
「ノルウェイの森」の原作者村上春樹氏は毎年のようにノーベル文学賞の最有力候補にあげられている。今年は物理学賞に続く日本人受賞が期待されたが、10月9日夜の発表では受賞ならず。翌日、現在の交流館管理人の山名知年さん(57)と話すと「昨晩は観光協会に集まって発表を待っていたのですが…」と少し残念そうだった。村上氏は阪神間育ちだが、砥峰高原に来たことはまだないそうだ。
落人伝説にちなんだ「平家そば処 交流庵」の店もできていてる。川上集落の人々がそばを打ち、調理し、運営する店だ。地元のそば栽培は収量がごくわずかなため、そば粉は福井県産とのことだったが、味はなかなかよかった。柚子ジュースなど特産品もそろい、交流館周辺は景色だけでなく味も楽しめる場所となっている。50代になって川上にUターンした山名さんは「山焼きをずっと続けてきただけに、山を生かしていきたいう気持ちや、地域のまとまりは強いでしょう」と話す。
◇ノハナショウブとともに青芒広がる初夏も
「人気が高まり来てられる人が増えているのは嬉しいことなんですが、昔と比べススキの数が減ってきているのが悩みです」と山名さん。時期の問題もあるので単純に比較できないが、上から見渡した時、高原全体でススキ原の占める割合が薄くなっているようには見える。ススキ原を維持してきた山焼きも「昔と違って温暖化でススキの芽が年末からの伸び始めるようになり、3月下旬の山焼きではススキの成育が妨げられる面もある」という指摘も専門家から出ているといい、「ススキ原にとって、どのくらいの割合を焼き、そのくらいを残せば一番いいのかを検討しています」。
「ススキが青く染まる初夏も素晴らしいですよ」と山名さんは「青芒(あおすすき)」もアピールしている。ただ、20年ほどまでは湿原に咲き誇っていたノハナショウブはシカの食害でぽつんぽつんとしか見られなくなり、山名さんがシカが寄りつかない交流館近くで栽培している状態だ。高原を取り巻くサクの設置も検討されたが実現には至っていない。たしかに、これだけの高原、秋だけではもったいない。青々と広がるススキ原の中に、紫のノハナショウブの花々が咲く光景を見たいものだ。
◇清流と気候生かし好評、「平家の里」の米や野菜
9月27日の帰りに川上集落の前を通ると、県道沿いの田には黄金色の穂が実り、年配のご夫婦が小型コンバインで刈り入れをしていた。山と川にはさまれたわずかな場所に田畑がつくられており、ご主人は「家族で食べるくらいの量ですよ」と謙遜されるが「コシヒカリを作ってますが、水が良いので、ここでつくったコメはおいしいと評判です」と胸を張る。
少し先には、そう広くはないがソバ畑があり、小さな白いソバの花が広がっていた。規模的には収穫するためより見るためのソバ畑のようだ。「50年前までは山ぎわでソバが多く作られていましたが、昭和30年代に杉をどんどん植えてしまったので、ソバ作りが途絶えてしまいました」とのことだ。他の山村と同じく、人工造林は期待されていた収入をもたらさず、川が汚れるなどマイナスの影響の方が大きかったようだ。
道路沿いの川上農産物販売所では、里芋、チンゲンサイなど豊富な野菜が一律100円並んでいる。野菜価格の暴騰で大阪近郊では200円以上の白菜の大玉があるのはありがたい。「きれいな水と涼しい気候を生かし、生野特産の岩津葱を取り寄せて植えるなど工夫しています」と栽培者の方が説明してくれた。
都落ちした平家一門の一部が住み着いたといわれる「平家の里 川上」。8月の地蔵盆で安徳天皇らの成仏を祈る福田寺の「壇の地蔵」に飾り餅を供える「花だんご」の行事が伝えられている。伝承を大切にしながら、高原と水の恵みを生かす活力のあるむらのようだ。
(文・写真 小泉 清)
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