戸隠連峰・高妻山の亜高山植物 長野市 | ||||||||||
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新潟県境に近い長野市の戸隠連峰の最高峰・高妻山(2353m)は、平安時代からの戸隠修験の行場だった嶮山。谷沿いの鎖場を突破し、天台修験にちなむ石の祠が続く稜線を登っていくと、コメツガの林の下をミヤマママコナ、ミヤマアキノキリンソウなど晩夏から初秋の花が彩っていた。 戸隠修験の跡残す嶮山に初秋の気配前日夕方に長野駅からバス終点の戸隠キャンプ場に入り、午前5時に歩き始める。戸隠牧場から谷沿いに進み、小滝をかける谷を右岸から左岸そしてまた右岸と遡っていくと、長さ20mほどの鎖場が現れる。細い流れで濡れた滑滝となっていて滑りやすいが、鎖をしっかり握って足場に靴をのせていくと、そう難しいところではない。続いて現れる不動滝の落ち口まで続く帯岩のトラバースは高度感があり、滑りやすいのでかなり緊張する。横に張った鎖を確実につかみ、足を慎重に運んで横切っていく。さらに巨岩をよじ登って滝の上に出れば「一杯清水の水場」。ここが最後の水場ということなので、水を補給しておく。◇谷筋の鎖場突破し、コメツガの稜線を上り下りしばらく涸れ沢を上がると、朝7時過ぎに一不動の避難小屋に着く。標高1820mのここから稜線伝いとなり、二釈迦、三菩薩、四普賢と如来・菩薩の名を示した石の祠が建てられている。三菩薩のあたりからコメツガの林が続き、その下にミヤママコナの赤紫の花、ハクサンオミナエシ の黄色い花が多くみられる。1時間ほどで標高1998mの五地蔵山に到着。間もなく六弥勒で新道の尾根道が合流してくる。ここから尾根道は北西に方角を変え、いくつかのピークを上り下りする。ホソバヤマハハコ、白いカラマツソウに続きエーデルワイスの同類のミネウスユキソウ、大ぶりの黄色い花が目立つマルバタケブキ、ミヤマアキノキリンソウなど亜高山性の植物が現れてくる。◇ひたすら急登、頂から北アの山並み七薬師のあたりから雨が本格的に降り出し、ガスがかかって周囲があまり見渡せない。10時半ごろに九勢至の石祠がある八丁タルミに着くと、ガスが少し晴れて高妻山の頂上部が姿を見せる。ここから200m以上の高度差を登り一本で上がらなければならない。道は急こう配の荒れ道となり、足だけではおっつかず、手でダケカンバの木やネマガリダケの根元、岩角をつかみながらよじ登る。1時間の急登で、ようやく緩やかになると、十阿弥陀に着いた。このあたり、リンドウは鮮やかな紫のつぼみを膨らませ開花直前、アカモノは赤い実をつけ初秋の雰囲気を漂わせている。岩のくぼみに、トガクシコゴメグサの白く小さな花がちりばめられたように咲いている。後は巨岩が立つ岩場をさらに北に進み、登山口から7時間、正午にやっと三角点のある頂上に立てた。ちょうど雨が上がって霧が晴れると、西側に北アルプスの山並みが連なっていて、白馬岳の大雪渓がくっきり見えた。 ◇ブナ林楽しみ下りる弥勒尾根の新道登山路はこの先、吾妻山まで続いているが、往復で最低2時間はかかるためここで打ち止め。1時前に下山にかかり、先の急坂を慎重に下りていった。幸い天候が回復してきて前方に飯縄山、左手に黒姫山と峰々を望みながら進む。九勢至から再び上り下りを繰り返し、2時過ぎに六弥勒に戻った。ここからは往路を取らず、南東にすとんと下る新道の弥勒尾根を選んだ。木の根元が雨に濡れて滑りやすいが、難所はなく気分的には軽やかだ。標高1700mくらいからはブナ林が続き、ミズナラやオオイタヤメイゲツなどの木々が楽しめる。それを過ぎるとこれまでに見たことがないような幹の太さの自生のヒノキの大木が4本ほど立っている。やがて谷の水音と戸隠牧場の牛の鳴き声が聞こえてくる。ほどなく、谷に出会って汗と泥にまみれた手足と顔を清め、午後4時過ぎに牧場に下り立った。江戸時代には幕府の意向で天台宗の戸隠山顕光寺の下で栄えた戸隠修験は、明治維新に伴う廃仏毀釈の中で顕光寺が戸隠神社に改編されて消滅した。しかし、頂上手前の十字阿弥陀には文久2年(1862)の銘の入った銅鏡が置かれるなど、修験の跡はよく留めている。さらに、この高妻山は、親鸞聖人が越後での配流を終え、関東に向かう前に登られ、帰途に笹で「南無阿弥陀仏」の六字名号を形作られたという伝承があるなど興味深い点が多い。 今は「百名山巡り」の中で登る人が多く、「予想以上のしんどさから百名山の中で二度と登りたくない山NO1」といわれるそうだが、余りある魅力はある。充実した思いを胸に午後4時、無事下山することができた。 (文・写真 小泉 清) ★越後から関東へ赴く間、戸隠の峰に親鸞聖人の足跡 2013.8.13,14取材 |