・花期 年によって変わるが、4月中旬~5月下旬
・交通案内 JR北陸線木ノ本駅、余呉駅から余呉バスで中河内終点下車(本数は少ない)。車なら北陸道木之本ICを下りR365を北上
・電話 余呉町観光協会(0749・86・3085)、余呉バス( 0749・86・8066)
=2013年5月9日取材=
寒さが戻って5月になっても北海道や東北の日本海側では雪が降り続いているニュース映像が流れる。雪といえば、全国有数の豪雪地帯の滋賀県長浜市余呉町中河内(なかのかわち)のユキツバキ(雪椿)は、この春も咲いているだろうか。近畿以西ではこのあたりでしか見られないこの花を見たくなって、北陸道を下り余呉湖の脇を通って旧北国街道(国道365号線)をひたすら北へ向かった。
豪雪の下でしなやかに、たくましく
椿坂を越えカーブが続く坂を上がると、淀川源流の高時川に沿って30戸ほどが連なった中河内の集落に着いた。標高500m、現在は滋賀県最北の集落で、冬によっては豪雪で一時孤立し、5月を過ぎても雪が残ることがある。立派な石鳥居と社殿のある広峯神社の裏の林には、横に這うように伸びる枝の間に、真紅のユキツバキの花が咲いていた。
立夏を過ぎて今さらツバキか、と思う人もいるだろうが、このユキツバキは日本海側の雪が多い地域だけに見られる種。新潟県では県木となるなどなじみ深い花のようだが、近畿では先ほど越えた椿坂以北の限られた地域だけに自生。広峯神社と東側の大将宮の林は南限に近い貴重な群生地として滋賀県の天然記念物になっている。
◇這うように広がる枝、黄金色の花糸
確かに冬から春にかけて照葉樹林などでよく見かけるヤブツバキとは大分印象が違う。高木にならなくても灰色の幹を上に伸ばすヤブツバキ(藪椿)と違い、ユキツバキは地面を這うように横に伸びている。豪雪の冬を越した2006年の4月中旬に訪れたときはユキツバキの大半がまだ雪に埋もれ、竹や細い木が雪の重みで折れた姿を見て驚いたが、確かに豪雪に耐えるには直立するより、しなやかに横に伸び、冬芽を寒さと乾燥から守るには雪にゆだねる方が適応度が高いのだろう。
花の見た目もかなり差がある。ヤブツバキの雄しべの花糸は根元では合わさり白くなっているが、このユキツバキでは元まで鮮やかな黄色で一本一本離れたままだ。葉はヤブツバキと比べて薄く、陽光を受けた斜面の木の葉を見上げると、葉脈が透けて見える。
バス停広場から少し東に入った大将宮にも、ユキツバキが生えている。ここは、むしろ雪が多く残る3月に仏炎包に包まれた花を咲かせるザゼンソウの自生地として知られている。高時川の源流にかかる小橋を渡ろうとすると、川の手前で畑仕事をしていた年配の女性が「もうザゼンソウは終わったで」と声をかけてくれたので「おおきに。きょうはユキツバキを見に来たんです」と答えた。
畑仕事をしながらの話では、中河内でもこの冬は雪の積もり方が少なく、例年より早く4月初めに雪は解けた。しかし、4月に入っても寒さは続き、3回の遅霜で畑のサンショも被害を受けたという。ユキツバキは雪解けを待って4月半ばには咲き始めたが、まだつぼみも多くあり、あとしばらくは咲き続きそうだ。
ハスの仲間のザゼンソウは葉が大きくなってきている。「山からイノシシが下りてきて、農作物はもちろん、ザゼンソウの球根も食べてしまいます。畑だけでなく自生地の周りにもしっかりした防護柵を作ってもらうことになってます」。一方、以前設けられていた観察用の木道は「破損して危険」と撤去されていた。広峯神社の木道も朽ちてきている。ユキツバキやザゼンソウを保全しながら地域の活性化に役立てる施策を県、市は進めてほしいものだ。
◇ユキバタツバキへうつる敦賀・池河内への山道
正午前だったので、北西へ福井県敦賀市の池河内(いけのこうち)に向かう道「庄野越」をたどることにした。7年前に一度通ったが記憶が薄れていたので、山菜取りから帰ってきた森崎森利さん(59)に教えてもらって、村はずれのお地蔵さんの横から山道に入った。今年は日陰でも雪道が見られない。少し上がったところでわずかながらブナの樹林が続き、灰白色の幹を包むような若葉がさわやかだ。近畿、中・四国ではブナといえば山の高いところにある印象だが、里の近くで見られるとは北国だと実感する。
今年は開花が早かったのか、トキワイカリソウ、ショウジョウバカマは終わっていたが、表六甲では3月下旬に開花していたコバノミツバツツジが咲き出したところで、春の歩みは1か月以上遅い。ところどころでツバキと出会う。横に伸びる樹形などユキツバキの特徴を持っているが、雄しべの花糸が元からではなく中ほどから離れているように、ヤブツバキに近いと思われる花も出てくる。両種が隣りあわせている地域には、中間の型のユキバタツバキ(雪端椿)が見られるとされる。この山道沿いにはこの種のツバキが多いようで、県境に近づくに連れて花糸の離れる位置が上になってきてヤブツバキの要素が強まっていくようだ。敦賀は日本海の影響を受けてやや暖かく、中河内と池河内ではツバキだけでなく他の植生にも違いがあるという。
1時間ほどで標高600mほどの滋賀・福井県境の峠に着く。電話線敷設工事で建てられたとみられる三角屋根の構造物が建っている。中河内の人は「ハット」と呼んでいる。「逓信省」の字が刻まれたコンクリート柱に沿って道は下っていくが、今回は峠で引き返した。倒木が道を阻んでいた7年前に比べると、見通しもきいて歩きやすくなっていた。
◇昔は都会への最短路、中高年登山者向けルートで復活
この道は、昔は中河内の人にとって重要な暮らしの道だった。森崎さんは「大正12年生まれの父は、池河内への道は都会に出る最短の道で、正月向けの買い物をする時などは滋賀県側の木之本でなく、池河内からさらに峠を越えて敦賀の街に行ったと話していました。私が子供のころでも、池河内まで遊びによく歩いていきました」。80歳になる女性は「ここに嫁に来たころは、古くなった布団の綿をかついでハットのある峠を越え、敦賀の街で打ち直してその日のうちに帰ってきました」と話していた。山を生活の舞台にしていた人々の脚力は想像を超える。
庄野越は、40年くらい前から暮らしの道としては使われなくなって荒れてきた。十数年前にボーイスカウトが補修したが、再び廃道化していた。ところが、中河内と湿原植物が豊かな池河内を結ぶ手ごろなルートとして最近ネット上などで人気を呼び、休日には中高年中心のグループがよく歩いているそうだ。
◇北国街道の要衝だったむらへの誇り
中河内からさらに国道365号線を北へ走ると、トチの大木が立つ栃ノ木峠。橋を渡ると県境を越えて福井県南越前市今庄地区に入る。かつて織田信長の重臣として北国経営を任された柴田勝家が、本拠の越前・北ノ庄と安土を結ぶ幹線として切り開いた北国街道。江戸時代にも旅人が行き交い、トチの木の下には茶店が立っていた。
中河内は江戸時代に本陣や問屋が置かれ、「今庄朝立ち、木之本泊まり、中河内で昼弁当」と歌われ、旅人にとって重要な集落だった。「この前の道を殿様が行列していったそうです」と年配の人は話す。終戦直後は80戸の家があり小中学校も置かれた中河内だったが、今は30戸を割った。8月には3年に1度、太鼓踊りという由緒のある祭りが行われ、遠くからも見に来る人でにぎわったが、その祭りも若者の減少などで平成になって途絶えた。
しかし、周囲の集落が離村やダム計画で消える中、限界集落となっても中河内は残っている。高齢化は年を追うごとに進み、一人暮らしのお年寄りも多いが、畑仕事をし、シャベルで雪かきをし、神社の清掃を交代で続けている。「雪ばかりで何もいいとことはない」といいながらも、話の中には北国街道の要衝だったむらへの誇りが感じられる。森崎さんは「名前の通り山が好きなので」と父の死去を機に17年前に東京から戻り、今では春・秋は山菜採り、夏は生薬の原料となるキハダの樹皮や栃の実の採取、冬は猪、鹿、熊の猟と森の恵み一本で生活している。
「昭和38年の三八豪雪では6m積もり、穴を掘ってハシゴで下りて家に出入りしていました」という大雪。この雪はユキツバキやザセンソウを育み、琵琶湖・淀川水系の源となる。豪雪の中で生きてきた里の人々がいて、こうした自然環境が守られていくのだろう。
(文・写真 小泉 清)
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