重畳山のオンツツジ 和歌山県串本町 | ||||||||||
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本州最南端の町・和歌山県串本町に立つ重畳山(302m)。弘法大師が高野山より前に開いたと伝えられる霊山では、頂から熊野灘に駆け下りるように新緑が広がり、その中を多彩なツツジが染め上げていた。 本州南端の山 海から新緑の森を染め上げる古座駅から古座川に沿って歩き出した。前方の山々はシイなどの照葉樹が黄金色の花序を伸ばし明るい緑に映えている。30分ほどで古田の集落に着き、お地蔵さんのまわりに地元の人がチューリップなどを植えた登山口を左手に進み、変電所の裏から山道に入った。この道は近畿自然歩道となっており、道標も整備されていてわかりやすい。初めは杉やヒノキの植林地の中を通るが、ほどなくコナラやシイなどの自然林にうつり、林床にシダが広がる。前方に薄紅色の花が開いているので近づくとモチツツジだ。がくを触ると餅のような粘みがあるのですぐわかる。左に小笠山への登路が分かれている。結構急な登りが続いているので小笠山へ立ち寄るのは諦めたが、少し上がった尾根道からは重なり合った熊野の山並みが見渡せた。 分岐に戻ってそのまま進むと、西向から車で来られる道と合流し、広場がある。南側の眼下に熊野灘が広がってきた。東寄りの古座川河口沖には九龍島、西寄りには大島が横たわり、大島と潮岬を結ぶ「くしもと大橋」のアーチがくっきり見える。侵食された石柱が橋の杭のように並ぶ国天然記念物「橋杭岩」も一つ一つがとらえられる。 ◇弘法大師が根本道場の最終候補地に? このあたりから神王寺(しんのうじ)の寺域となり、参道に八十八体の石仏が並ぶ。ほどなく本堂に着く。コデマリの白い花が前の庭に咲いていた。お堂には「熊野曼荼羅第二十八番」と書かれた木札が掲げられている。6年前に西向からの道を上がってきた時、先代の大芝弘道住職に寺の歴史を尋ね「弘法大師が根本道場を開こうと適地を探しておられた時に、この重畳山に着目されましたが、多くの寺坊を建てるには狭いと断念、高野山を選ばれたといわれています」と説明してもらったことを思い出した。 弘道師は熊野古道近くの三十三の寺社が協力した巡礼コース「熊野曼荼羅」の創設に力を注いでおられた。現在の大芝英智住職(42)には下山後、「登り口の古田には弘法大師が宿を提供してもらったお礼に、自然に稲が実る『撒かずの田』の話が伝わるなど、重畳山の周辺と弘法大師は強いつながりがあります」と教えてもらった。 橋杭岩にも、「弘法大師が天邪鬼と競って橋をかけたものの天邪鬼にだまされて途中で止めた」という伝説が残っている。この寺の開基も紀州に多いお大師さん伝説の一つかも知れないが、知力・行動力とも日本史上きってのスーパーマンともいえる空海なら、実際この山に登ってきても不思議でないような気がする。 本堂のすぐ上には重山神社の本殿がある。平安時代からは熊野三山の神をまつり、神仏習合で神王寺と並立してきた。石仏の中には漁業者の寄進もある。重畳山は沖合いに出た漁業者にとって格好の目印となり、山名の由来も、山を別の目標物に重ねて自らの船の位置を知る手がかりとなる当て山だったからという。里の農民にとっても、水源となる重畳山は恵みの山だったのだろう。 ◇鮮やかな赤、背も高く元気を呼ぶツツジ 神王寺から苔むした石の道を通ると、最後の展望広場だ。ここから最高の眺望が得られるが、緑の中に鮮やかな赤いツツジの花々が枝を包むように咲き誇っていた。登山路わきの斜面を慎重に下って近づいてみると、枝先に3枚の葉がつき、10本の雄しべが伸びている。山に自生するツツジの中でも、四国や紀伊半島に多いオンツツジに違いない。男性的なツツジという意味で「オンツツジ」と名づけられたそうだが、確かにツツジの中では、木の高さも6mほどと高く、花も大きめ。熊野の風土にふさわしい、見ていて元気が出るようなツツジだ。 広場から急坂を登って山頂に上がった。頂上周辺はスダジイ、ウバメガシ、ヤマモモなどの常緑樹が繁っており、枝越しに北側に連なる熊野の山並みを望む。標高300m少しだが、海岸近くの海抜ほぼ0mのところからスタートするだけに登りがいがある。 展望広場の手前に「伊串(いくし)まで3・3キロ」と書かれた案内板があり、真南の熊野灘に向かって急な山道が下っていた。一旦車道と合流した後、木の階段の道が樹林の中を突っ切り、海を見下ろしながら照葉樹を見ていくことができる。スダジイ、タブ、ヤマモモをはじめ、紀州備長炭の原木に使われるウバメガシと樹種は豊か。本州南端の山の、しかも南斜面だけあって、大きめの木が多い。一つ一つの木も魅力的だが、山頂の方を振り返ると、明るい新緑がせりあがるように広がっている。ところどころにオンツツジ、モチツツジ、ヤマツツジと多彩なツツジ類が競うように花を開いている。花期の早いコバノミツバツツジはさすがに花は終わり、鮮やかな三枚の葉が出ていた。 ◇谷の奥深く、流れ落ちる神秘の滝 1時間ちょっとで谷筋に下りる。眺望はなくなるが、今までと違った静かな谷歩きを楽しみながら、里に着いた。田畑が広がり、遅咲きのぼたん桜が満開となっている。伊串の街並みまであと少しだが、日はまだ高い。下りてきた谷筋と別の沢に立派な滝があるという話を思い出し、耕運機で田仕事をしていた人に道を尋ねた。お堂の所まで引き返し、先の近畿自然歩道と違って西側の山腹に向かう林道をたどった。林道は舗装路から砂利道になり、谷に沿って30分ほど進むと、「七珍宝(しっちんぽう)の滝」「銚子の滝」と書かれた案内板がようやくあった。 谷が二股に分かれたところで東側の沢に下りてさかのぼると、木々の奥に落ちている滝が見えた。高さ18m、そう大滝とは言えないが、緑の中の漆黒の岩盤の上を何条かに分かれて落ち、神秘的な雰囲気を感じさせる滝だ。11月15日には伊串の代表が参拝してしめ縄をかけかえる「お滝さん」の神事が続いているのもうなずける。分岐に戻り今度は西側の沢の上の山道を登っていくと、眼下に勢いよく落ちる「銚子の滝」が現れた。山道は2年前の紀伊半島大水害の影響か崩壊しているところもあるが、滝を越えた後も続いている。そのまま登り続ければ山頂に到達するはずだが、さすがに二度登るだけの余力はなく、南面の名瀑2本を見られたことに満足して引き返した。 ◇南紀一円から漁業者、賑わった御影供 伊串の家並みに入り、紀勢線の踏切を渡ろうとしたところで、農作業から戻ってきた山崎幸一さん(72)と出会った。重畳山霊地維持保存財団の専任理事を務め、地元でも重畳山を良く知っている人だ。重畳山の山頂付近の山林は伊串のほか、古田、古座、西向、神野川の五地区でつくる財団法人で管理、神王寺や神社の行事もこの5地区で支えてきた。「弘法大師ゆかりの旧暦3月21日に行われる御影供(みえいく)は特に大きな行事で、「私が若いころは太地をはじめ南紀一帯から漁業者が集まりました。夜店も立って、里の人も前夜からおこもりしてにぎわっていました」と振り返る。伊串の場合、曹洞宗の寺の檀家となるなど、麓の集落は神王寺の檀家ではないが、弘法大師への信仰はそれとは別に広がってきた。 今年の御影供は4月30日に行われるが、近年は5地区からの参加者も役員ら一部に限られ、かつてのにぎわいは消えた。「維持保存財団」も法律の改正や林業の低迷で今年末で解散となる。山崎さんは「重畳山の自然や歴史資産を地元の力で守っていくためにも5地区の協力を続け、任意団体をつくりたいと考えています。町にも働きかけて道標の整備やPRを進め、多くの人に重畳山の魅力を知ってもらいたいと思っています」と話している。 今回は、古座川西岸の古田から登って神王寺と重山神社をたどって頂上に達し、熊野灘に向かって尾根道を下り、さらに谷筋をうつって名瀑を眺める贅沢なコースを楽しめた。重畳山は、海、山、川が一体となった熊野の自然の魅力が重なり合った山だ。 ★年に一度 五地区で支える神王寺の御影供=2013.4.30取材 (文・写真 小泉 清) |