賀名生の梅  奈良県五條市                   

・花期   賀名生梅林は2月下旬〜3月下旬。里の紅梅、白梅は2 月中旬〜3月中旬
・交通  JR和歌山線五条駅から奈良交通バスで賀名生和田北口(R168)または賀 名生(専用道)下車
・電話  五條市役所西吉野支所 (0747・33・0301)
賀名生の里歴史民俗資料館(0747・32・9010)
   
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 =2013年3月15日取材


薄紅色の八重の林州をはじめ二万本の梅の花が、北曾木の丘陵の麓から中腹までを染め上げる

 
 
  南北朝の戦いの時代、南朝の御所が一時置かれた奈良県西吉野村の賀名生(あのう)を8年ぶりに訪ねた。650年の歴史を伝える国重文・堀家住宅のまわりの紅梅・白梅は、春の日差しを受けて満開となり、丘陵に広がる賀名生梅林では吉野地方独特の品種・林州(りんしゅう)を中心に花が咲き進んでいた。

    南朝の歴史語るように 薄紅の八重

  まず、堀家住宅の前の広場に開館した「賀名生の里歴史民俗資料館」で地域の歩みを学んだ後、賀名生梅林の周遊路をたどった。今年は2月は寒い日が続き、開花は遅れ気味だったが、ここ2、3日にの暖かさで、日当たりのよい斜面では一歩一歩と開花が進んで来て七分咲き、3月20日の春分の日の頃に満開を迎えるのではないかという。

 南朝の公家らがこの地で梅を詠んだ歌が残されているが、今のような広い梅林となったのは意外と新しく、1923年(大正12年)に当時皇太子だった昭和天皇のご成婚記念に植えられたのがきっかけという。「昭和10年過ぎに中国との戦争が激しくなったころ、梅エキスに加工して送り出していたことは覚えています。戦地での水あたりなどに効くとされていたんですね」という古老の話のように梅は時代を反映する。戦局が悪化した時は梅を切って畑に変えたが、戦後、桑やシュロといったかつての特産物が市場を失ったこともあり、梅の木は増えていった。北曽木(ほくそぎ)地区の50戸の農家が60ヘクタールで栽培している。

  ◇梅干しや梅酒でも林州に復権の動き

  2万本という梅林の梅の大半は、本来梅干などに加工する栽培種の梅だが、その中でも「林州」は淡紅色の八重で、この地にふさわしい優雅さを感じさせる。つぼみは深い赤みを帯び、引き締まったたたずまいだ。このほか、薄紅色の一重の鴬宿、白の白加賀、南高、小梅の品種がある。農家の近くには枝垂れや紅梅など花梅も見られ変化が楽しめる。

 しかし、十数年前から賀名生ならではの悩みが出てきた。もともと賀名生で栽培していた梅の大半は林州だったが、戦後、和歌山県みなべ町で開発された南高梅(なんこううめ)が市場を席巻、林州は一時買い手がつかないか、南高梅の半値という事態になった。このため南高梅への植え替えが進み、林州は全本数の2割程度に低下。林州を切って南高梅に全面的に植え替えようという動きも起こったという。

 栽培農家の中で「これ以上、南高梅への転換が進むと梅林が白一色になり、淡紅色を基調とした賀名生梅林の価値が失われる」という声が起こり、2002年に有志が「北曽木ウメを育てる会」を発会。林州については地元の加工業者が一定量を引き取るシステムをつくった。2005年に会の代表だった更谷克英さん(74)を訪ねたところ、「林州は北曽木梅とも呼ばれ、この地域の梅を最も良く伝える品種。南朝の時代にも同じ系統の梅が咲いていたのではないでしょうか」「景観を守るため2割の本数は維持し、林州の特性を生かした加工品の開発も進めたい」と復権への思いを語っていた。

 周遊路の中ほどの「振り返り千本」近くにある更谷農園を8年ぶりに訪ねた。春休みに援農に来た大学生の孫と山にシイタケの原木を運びに行く準備をしていた更谷さんは、仕事の手を止めて、その後の動きを話してくれた。今も会の活動を続ける更谷さんによると、南高梅があまりにも広がったため、ここ数年は林州に珍しさが出て見直しの動きも現れてきた。特に五條の成長株の食品会社が積極的に引き受けて梅干しに加工して出荷、スーパーの客を賀名生梅林に案内するなど、販売と観光の相乗効果もあげているという。種が大きく加工しにくい欠点もあるが「梅干しの肉がやわらかくて食べやすい」「梅酒にしてもまろやかに飲める」と消費者には好評だといい、「幅広い料理に使える」とテレビの料理番組でも紹介されるようになってきた。

 しかし、まだ攻勢をかけるレベルまでには来ていない。「企業の方は増産を要請してきているのですが、病気にかかりやすいなど農家にとってきついこともあり生産が追いついていません。林州は古木が多く、切るとそのまま植え替えることも少なく、何とか踏ん張っているという段階です」という状況だ。園内の売店の梅干しも「林州」をうたった品が置かれておらず、木にも種の説明板が見当たらない。「林州の苗木の育成を専門の育苗業者に頼んで進めています。10年くらいの長い目でブランド化を進めていければ」と更谷さんは話している。会には若手のメンバーも参加、花も実もある将来に期待したいところだ。

  ◇周遊路をゆっくり上り下り、店巡りも楽しく

 周遊路を「西の千本」近くまで上がると、西吉野一帯と周囲の山々が見渡せる。南東方向の一番向こうに連なるのは大峰山脈。稜線はまだ雪をかぶり、修験の山々にふさわしい神々しさだ。さらに「奥の千本」に進むと、梅園前の陽当たりの良い広場に縦2m横4mほどの干し台4基が置かれ、梅の実がびっしり並べられていた。梅の実は昼下がりの春の陽光をたっぷり受け、農園主が長い木の棒で色の具合を見ながらひっくり返したりしている。尋ねたところ、「一昨年収穫した実で、長い時間かけてアクを抜きます。雨が降ったらすぐシートをかぶせ、こうして2週間、注意しながら天日で干しています」。

 周遊路は「東雲千本」「見返り千本」と続くが、このように自然の恵みと農家の丹精を込めた梅干しなどをそろえ、道沿いに店開きしている農園も多い。自慢の梅を前にした梅談議は楽しく、勉強になる。

 梅干し、梅酒などは健康食品として堅調な需要があり、安定的に生産しているのかと思ったがそうでもないらしい。長引くデフレ経済で梅干しの販売価格が切り下げられ、スーパーから加工業者、梅農家と価格カットが連鎖されていって出荷価格も底値を続けているそうだ。ただ、一時価格面で圧倒されていた中国産の梅干しに対しては食品の安全性から優位な面が出てきた。中国産の梅を輸入して加工することもある大産地と違って、「『賀名生では産地の梅を地元で加工しているので安心して食べられる』と言ってもらています」と屋外の売店のおかみさんが話していた。

 話を聞きながらなので3時間がかりで周遊路を巡り入口に戻ってきた。周遊路は車でも行けるが、道幅も狭く一方通行で、特別な事情がなければ、ウォーキングを兼ねて歩くにこしたことはない。周遊路以外の脇道にも入れ、梅以外のサンシュユやミツマタなど早春の花木、フキノトウやワサビの花も見られる。

 ◇街道の行き来見つめてきた堀家住宅表門

  梅林を下って和田集落に戻り、西熊野街道に面した堀家住宅の門前に立った。14世紀の南北朝の時代、この地の郷士だった堀信増が屋敷を構え、京都から吉野に移る途中の後醍醐天皇が立ち寄り、さらに足利幕府軍に吉野も追われた後村上天皇が仮御所を置いたところ。茅葺きの表門には、明治維新のさきがけとされる天誅組の吉村寅太郎が立ち寄った際に書いた「皇居」の扁額がかけられてきた。

 堀家住宅の東側を流れる丹生川の橋を渡ると、五新線(五條ー新宮)計画の夢の跡のバス専用道が通り、紅梅の脇を夕方の五条駅バスが走って行った。堀家に戻って白梅が続く道を背後の丘に上がると、この地で亡くなった南朝の指導者・北畠親房の墓があった。ここからは薄紅色に染まってきた賀名生梅林が一望できる。

 冬と春が混じりあう季節に、時間をかけて咲いていく梅は南朝の里によくなじむ。

                             (文・写真  小泉 清)


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