賀名生の梅 奈良県五條市 ![]() |
||||||||||
![]()
|
||||||||||
南北朝の戦いの時代、南朝の御所が一時置かれた奈良県西吉野村の賀名生(あのう)を8年ぶりに訪ねた。650年の歴史を伝える国重文・堀家住宅のまわりの紅梅・白梅は、春の日差しを受けて満開となり、丘陵に広がる賀名生梅林では吉野地方独特の品種・林州(りんしゅう)を中心に花が咲き進んでいた。 南朝の歴史語るように 薄紅の八重![]() 南朝の公家らがこの地で梅を詠んだ歌が残されているが、今のような広い梅林となったのは意外と新しく、1923年(大正12年)に当時皇太子だった昭和天皇のご成婚記念に植えられたのがきっかけという。「昭和10年過ぎに中国との戦争が激しくなったころ、梅エキスに加工して送り出していたことは覚えています。戦地での水あたりなどに効くとされていたんですね」という古老の話のように梅は時代を反映する。戦局が悪化した時は梅を切って畑に変えたが、戦後、桑やシュロといったかつての特産物が市場を失ったこともあり、梅の木は増えていった。北曽木(ほくそぎ)地区の50戸の農家が60ヘクタールで栽培している。 ◇梅干しや梅酒でも林州に復権の動き ![]() しかし、十数年前から賀名生ならではの悩みが出てきた。もともと賀名生で栽培していた梅の大半は林州だったが、戦後、和歌山県みなべ町で開発された南高梅(なんこううめ)が市場を席巻、林州は一時買い手がつかないか、南高梅の半値という事態になった。このため南高梅への植え替えが進み、林州は全本数の2割程度に低下。林州を切って南高梅に全面的に植え替えようという動きも起こったという。 栽培農家の中で「これ以上、南高梅への転換が進むと梅林が白一色になり、淡紅色を基調とした賀名生梅林の価値が失われる」という声が起こり、2002年に有志が「北曽木ウメを育てる会」を発会。林州については地元の加工業者が一定量を引き取るシステムをつくった。2005年に会の代表だった更谷克英さん(74)を訪ねたところ、「林州は北曽木梅とも呼ばれ、この地域の梅を最も良く伝える品種。南朝の時代にも同じ系統の梅が咲いていたのではないでしょうか」「景観を守るため2割の本数は維持し、林州の特性を生かした加工品の開発も進めたい」と復権への思いを語っていた。 ![]() しかし、まだ攻勢をかけるレベルまでには来ていない。「企業の方は増産を要請してきているのですが、病気にかかりやすいなど農家にとってきついこともあり生産が追いついていません。林州は古木が多く、切るとそのまま植え替えることも少なく、何とか踏ん張っているという段階です」という状況だ。園内の売店の梅干しも「林州」をうたった品が置かれておらず、木にも種の説明板が見当たらない。「林州の苗木の育成を専門の育苗業者に頼んで進めています。10年くらいの長い目でブランド化を進めていければ」と更谷さんは話している。会には若手のメンバーも参加、花も実もある将来に期待したいところだ。 ◇周遊路をゆっくり上り下り、店巡りも楽しく ![]() ![]() 周遊路は「東雲千本」「見返り千本」と続くが、このように自然の恵みと農家の丹精を込めた梅干しなどをそろえ、道沿いに店開きしている農園も多い。自慢の梅を前にした梅談議は楽しく、勉強になる。 梅干し、梅酒などは健康食品として堅調な需要があり、安定的に生産しているのかと思ったがそうでもないらしい。長引くデフレ経済で梅干しの販売価格が切り下げられ、スーパーから加工業者、梅農家と価格カットが連鎖されていって出荷価格も底値を続けているそうだ。ただ、一時価格面で圧倒されていた中国産の梅干しに対しては食品の安全性から優位な面が出てきた。中国産の梅を輸入して加工することもある大産地と違って、「『賀名生では産地の梅を地元で加工しているので安心して食べられる』と言ってもらています」と屋外の売店のおかみさんが話していた。 話を聞きながらなので3時間がかりで周遊路を巡り入口に戻ってきた。周遊路は車でも行けるが、道幅も狭く一方通行で、特別な事情がなければ、ウォーキングを兼ねて歩くにこしたことはない。周遊路以外の脇道にも入れ、梅以外のサンシュユやミツマタなど早春の花木、フキノトウやワサビの花も見られる。 ◇街道の行き来見つめてきた堀家住宅表門 ![]() 堀家住宅の東側を流れる丹生川の橋を渡ると、五新線(五條ー新宮)計画の夢の跡のバス専用道が通り、紅梅の脇を夕方の五条駅バスが走って行った。堀家に戻って白梅が続く道を背後の丘に上がると、この地で亡くなった南朝の指導者・北畠親房の墓があった。ここからは薄紅色に染まってきた賀名生梅林が一望できる。 冬と春が混じりあう季節に、時間をかけて咲いていく梅は南朝の里によくなじむ。 (文・写真 小泉 清) ★大水害の教訓と支援の心を今に 堀家の看板 |