篠山盆地西端の里・今田新田にある西方寺に樹齢600年と伝えられるサザンカの大木が立つ。四方に伸びた枝には薄紅色の一重の花が開き、晩秋から初冬に移る里で華やぎを見せていた。
丹波杜氏の古里を彩る紅一重
日本六古窯の一つ、立杭からさらに北西に入ると、枯田の向こうにカヤの高木が見える。これを目標に進むと西方寺で、境内の奥にサザンカが広がっていた。高さ4・5m、枝張りは東西、南北とも9m近い。「さざんか、さざんか咲いた道」で始まる「落ち葉たき」の歌のように、サザンカは庭の垣根などに植えられ、初冬の身近な風景としてなじみ深い木だ。しかし、これだけ堂々とした木は他には見たことがない。
◇師走の寒風の中、凛と咲き続ける
本堂側から木を見ると、花の数は少なめのようだ。咲いている花も開き方が小さく、まだ閉じたままのつぼみも多い。ここ数日の朝の冷え込みで身をすぼめているように見える。「開花がいつもの年より遅れているのでしょうか」と尋ねようとすると、庫裡から奥様が出て来られて「11月は暖かい日が多かったため、寒さを感知して作動する開花のスイッチが入らず、11月23日のさざんか祭りでも五輪ほどしか咲いていませんでした。12月になってから雨の後の急な冷え込みでつぼみが凍てついたようになって、これから咲くか咲かないか…」と説明してもらった。
やや気落ちしたが、木に近づいて境内からは裏手になる南側に回ると、こちらは陽当たりが良いためか結構花が開いている。寒さ暖かさの微妙な具合などで、開花に悪い条件がある年でも咲き続けるサザンカ。花の数が少なめで、小ぶりでも、師走の寒風の中で開く花は凛とした表情が一層ひきたつ。
例年より少ないが、落ちた花びらが土の上に敷き詰められた木の下から見上げると、どっしりとした白い幹が地表80cmほどのところで三つ、四つと分かれ、さらに無数の枝が冬空に伸びている。
西方寺はもともと丹波・播磨の国境の山に建てられた西光寺として栄えたが、一ノ谷に向かう源義経が放った火で焼失。さらに丹波に攻め入った明智光秀の兵火にあい、江戸時代になって新田が開かれたこの地に再建されたという。「樹齢600年」が事実なら、寺が建てられた時にはすでにこのサザンカが立っていたことになる。
◇「樹齢600年」の元気もらう
史実はともあれ、このサザンカは「紅一重」の名で広く親しまれてきた。1995年からは地元の人が中心となって毎年11月23日に「さざんか祭」が行われ、同じ樹種の茶をサザンカの幹にかける「献茶」や演歌で楽しむ。樹齢600年にあやかって長寿を祈念するお年寄りも多く、「バスで立ち寄った老人ホームの方は、この木のようにずっと元気でいたいと言われ、サザンカの実をお渡しすると、ホームの庭で育てると喜ばれました」。
樹木医に見てもらうなど木の健康管理には気を配る。「枝と枝とが押し合ってきており、木を弱らせるのではないか」と5年前に地元の造園業者がせん定して枝葉をすっきりさせた効果が出てきたためか、「木の勢いは以前より元気になっている様子で、植木屋さんも『幹がしっかりしてきたのでハシゴなしで木の上にも登れる』と言ってました」。
山門わきの高さ20mほどのカヤも、樹齢600年とされる。台風の来る10月から11月にかけて実がいっぱい落ち、この実を炒って中身を食べると、子供のおやつにもビールのおつまみにもなり、戦前は「結核に効く」と重宝されたという。「今も落ちた実を拾っておいて、正月に寺にお参りする人に分けると喜ばれます」。残念ながら今秋は鳥がほとんど食べ尽くしてしまったそうだ。
◇出稼ぎ自由化に命かけた清兵衛の碑
サザンカのわきに「義民市原清兵衛菩提の碑」と刻まれた石碑がある。江戸後期、篠山藩の農民が丹波杜氏として灘や伊丹の酒造業での冬季出稼ぎに自由に行けるよう、命をかけて運動した人物だ。
冬が厳しい丹波は裏作ができず、農民にとって酒造出稼ぎは「百日稼ぎ」として欠かせない収入源だった。一方、篠山藩は小藩ながら青山氏が譜代大名の筆頭格で幕府の要職につくことが多く、財政的な負担も増えるので厳しく年貢を取り立てた。さらに、不作が続くのは農民の出稼ぎのためとして、出稼ぎ規制を強化した。市原村の清兵衛は江戸に行き、寛政12年(1800年)12月14日、老中だった藩主・青山忠裕に直訴。そのかいあって出稼ぎは自由化されたが、清兵衛は11年間入牢し、赦免後は伊丹に移ったと伝えられる。
「出獄後、年貢米に加えてかかる割り増し米の免除を直訴しようと再び江戸に向かったが、途中で行方不明になった」との話もあり、なぞに包まれた点が多い。篠山市の歴史研究家梶村文弥さんに以前うかがったところ、「篠山藩領の中でも今田は山がちで、水利上、田に適さない土地が多く、一戸あたりの耕地の広さが他地域の半分。そうした厳しい生活条件があり、一揆も多発していました。清兵衛にまつわる話は、英雄を求めた農民の願望も反映しているのではないでしょうか」と歴史的背景を説明してもらった。
一方、清兵衛には入牢中も藩が特別の配慮で冬着を与えたとも伝えられる。「藩も時代の変化の中で、清兵衛の主張と人物を認めないわけにいかなかったのでしょう。出稼ぎ規制はその後も出ますが、長期的には自由化の動きは止められず、清兵衛らの行動が新しい時代を切り開いていったといえます」。
丹波の冬の厳しさも、昔に比べるとずっと緩んできたという。丹波杜氏の流れをくむ人々も、灘に出るより、この地にできた酒造工場に通勤することが多くなったが、清兵衛の先覚者としての輝きは色あせない。
「我意強く吟味難渋」と「藩日記」に記された清兵衛。彼が江戸に向かう前に見たはずの西方寺のサザンカは、新酒の季節が巡るたびに紅一重の花をつけていくことだろう。
(文・写真 小泉 清)
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