田能・尼崎市農業公園の花菖蒲  兵庫県尼崎市           

   
        
         梅雨時、木々に囲まれた園地で白と紫の花菖蒲が爽やかさを呼ぶ
・花期  5月下旬〜6月末

・交通案内
 阪急神戸線園田駅、JR福知山線猪名寺駅から尼崎市営バスで田能西下車すぐ 。阪急神戸線園田駅前にレンタサイクルがある

電話 尼崎市農政課(06・6489・6542)
                                =2012年6月8日取材=
        
 
 阪神地域を南北に貫き、流域の人々に命の水を供給している猪名川。流れに沿って弥生時代の集落跡が見つかった田能遺跡から左岸に渡り、広い堤防上を西に歩くと尼崎市農業公園が見えてくる。田植えの季節を迎えた水田に囲まれた園地では、花菖蒲がさまざまな色合いを見せている。

    猪名川が運ぶ恵みの土に彩り豊か

 この農業公園は尼崎の中でも農地がよく残っていた田能地区に30年前オープン、3.4ヘクターの広い敷地にはボタン、バラなど花ごとの園地が広がる。最後の輝きを見せる春のバラ、色づいてきたアジサイも捨てがたいが、初夏の主役はやはり花菖蒲だ。73種類、2万5000本という花菖蒲が次々と咲き、深い紫、淡い青、赤紫と白の絞りと彩りも豊富だ。この日は近畿も梅雨入りし、昼過ぎから小雨が降り出したが、梅雨空の下、真っ白の花がひときわ爽やかに感じられた。

 ただ、猪名川の堤防下の菖蒲園などは、以前来た時より寂しくなったような気もした。園内を歩いていても「今年は少ないのかな」という声も聞いた。毎年訪れる愛好家も多いようなので、今後も高い水準を保ってほしいものだ。

 園内を巡るだけでも楽しいが、周囲の田園の景観も素晴らしい。水田を転用して出来た西側の花菖蒲園の花の向こうには1ヘクタールほどの田が広がり、翌々日の田植えを控えて農家の人が準備をしていた。家が建て込んでしまっていたら花菖蒲園の風情も台無し。周囲にこうした田が広がっているからこそ花も映えている。

 ◇とれたての野菜や切り花、楽しい農家の店

 公園の管理は市だが、地元の農家は土地の提供だけでなく、運営に積極的に参加している。レストランなどはなく、有志でつくる「田能グリーン組合」がテント張りの出店を開き、地元の奥さん4人が近辺の田でとれた米を炊いた「たけのこご飯」や旬の玉ねぎ、ジャガイモ、薄紅色のゴテチャ、黄色のノコギリソウなど切り花を格安で販売、昼時には来園者でにぎわっていた。代表の畑美和子さん(71)は「花を見るだけでなく、新鮮で安い野菜目当てにと毎年寄る人もいるので、楽しくやっています。阪神大震災の時、公園に避難した人に豚汁をつくったり、朝収穫したホウレンソウをみんなでおひたしにして神戸に運んで行きましたが、その時知り合った人たちも来てくれます」と話していた。

 たけのこご飯は昼食に食べ、この日が初物というニンニクとモロッコ豆を買って夕食に使ったが、大粒のニンニクは蒸すとほっこりと栗のような味わい、モロッコ豆はおすすめ通りにテンプラにして食べると、サクサクした口当たりでおいしい。4月上旬から田植えが始まる6月上旬ごろまでの期間限定の出店で、今年は6月10日までなのが残念だが、来年は田能名産の「赤エンドウの赤飯」も食べたいものだ。

 畑美和子さんの夫の畑喜一郎さんは、田能グリーン組合の創設のほか、畑を農業志願者の実習園にして田能特産のサトイモの栽培を広げるなど地域活動のリーダー役だった。残念ながら一昨年の6月に12年間闘ったがんのため70歳で亡くなったが、こうした活動は受け継がれている。9年前に訪れた時、「開発が進む中でもなぜ農業を続けいるのですか」と尋ねると、「まずまわりを歩いてみましょう」と半日かけて田能一帯を案内してもらったことを思い出した。

 ◇暮らし支えてきた広葉樹林や竹薮

 公園の内外には、もともとの猪名川河畔の豊かな植生の名残が見られる。園東側の小道の北側に竹やぶが続き、つややかな緑の竹が真っ直ぐに伸びている。その向こうの竹やぶは孟宗竹でムクドリのねぐら。個人では相続税の負担などで維持が難しくなり市が買収、駐車場にする計画を変更して保全されたという。「昔は川沿いに竹やぶが続き、真竹は壁土の地として重宝され、尼崎の街中に売りに持っていきました」と畑さんが教えてくれた。

 小道の南側は2.5mくらい高い土手となり、エノキやムクノキなどの落葉広葉樹が見られる。「46年前に付けかえられるまではここが猪名川の土手でした。ムクノキは天秤棒、エノキはまな板に使われていましたね」。覚円寺のイヌマキは遠くからの目印で集落のシンボルとなっている大木。一本一本の木が生活に結びついてきた。ただ、田能の集落の入り口のような場所にあった堤防沿いのクスノキは、旧家の代替わりで今年切られたそうだ。

 ◇水巡る苦闘の歴史、農への思い強く

 
現在の堤防の下に、室町時代に田能を支配していた土豪・田能村大和守と、豊中市にあった興福寺の春日社領原田庄との水争いを記録した碑がある。田能周辺の水を守るため村人とともに原田庄の立てた用水の杭を引き抜いたものの、興福寺の力に敗れた大和守を顕彰している。一方、旧土手の近くに建てられた供養塔には、江戸時代中期の1740年6月9日に大雨で猪名川が決壊し、「幾千万」もの人が犠牲になった惨事が刻まれている。対岸の田能遺跡周辺で弥生時代に米作りが始まって以来、人々にとって水の確保と制御は生きていく上で最も大切な問題だった。

 「エジプトのナイル川のように、猪名川の氾濫で運ばれてきた土が、田能の自然や農業を支えてきました。適度に水はけの良い土のおかげで真竹が伸び、稲が育ち、そして花菖蒲の花もいっぱい開くのです」と畑喜一郎さんは話していた。猪名川の恵みの土を生かしながら、水を巡って苦闘してきた先人の刻んできた歴史が、現代でも土への思いを強くしているのだろう。

 マンションやアパートに囲まれながら残っている畑では、玉ねぎが土の中でどっしりとした実をつけ、ジャガイモが薄紫色の花、カボチャは黄色の花を開いている。農業公園と周囲の大地は初夏の豊かな表情を見せてくれる。
                                  
                                  (文・写真  小泉 清)