大阪・福島区の野田・玉川一帯。今は事業所や住宅が立ち並ぶこの地は、昔「吉野の桜・野田の藤」とうたわれたフジの名所だった。戦火や開発で消えかかったノダフジは地元の人々の力でよみがえり、日照がさえぎられ地面も少ない大都会の悪条件を乗り越えて、新緑の街で薄紫の花房を垂れている。
街中によみがえる「紫の雲」
JR環状線野田駅から新なにわ筋を南東に進み玉川南公園から東へ入ると、マンションと駐車場のはざまに薄紫の藤が垂れる藤棚が二つ並ぶ。フジの花の上には阪神高速道の高架が見える。藤棚の脇には春日神社の小さな社と「野田の藤跡」の石碑。どこにでもある街中の風景のようだが、ここは日本独自のフジの原種とされるノダフジの発祥の地なのだ。
社真向かいのマンション前のフジは、長さ29mの棚いっぱいに花が垂れ、ノダフジの特徴をよく示している。つるは下から見て右巻き、長さ50cmを超す長い房を垂れ、先は紡錘形に締まって形が良い。左巻きで房が短くずんぐりしたヤマフジとは違った趣がある。
◇足利義詮や秀吉も花見に
春日神社横のマンション一室の扉に「野田フジ資料室」という案内板が掛けられている。ノダフジと春日神社を代々受け継いできた藤家の18代当主の藤三郎さん(72)が2004年にオープン、藤家に伝わる「藤伝記」という江戸時代初期にできた絵巻物の写真など数多くの史料が展示され、消滅の危機を何度も乗り越えてきた野田のフジの歩みが良くわかる。
化学メーカーの研究開発部門にいた藤さんは、東京や山口県での勤務が長く、若いころはノダフジのことにあまり関心がなかったそうだ。しかし、60歳を過ぎてから古文書解読の勉強を始め、64歳で退職してから本格的に家に残る史料の研究を始めた。
「藤伝記」などによると、淀川の砂洲だった野田・玉川に人が住むようになったのは鎌倉時代になってから。当時、この付近を領地としていた太政大臣・西園寺公経(きんつね)が一帯に広がるフジを和歌に詠んでいる。足利幕府の二代将軍・義詮(よしあきら)が住吉詣の帰りに寄って詠んだ「むらさきの雲とやいはむ藤の花 野にも山にもはひぞかかるる」などの歌も残されている。「自然と流れ着いたフジが繁茂して松の木に絡まっていた模様で、雲のように一面に広がる雄大な景色だったと思われます。京からの水運でも便利な地だったので雅の里、遊興の地となっていたのでしょう」と藤さんはみている。
熱心な浄土真宗の門徒が多かった野田は、戦国時代には本願寺と有力武将との間の抗争の舞台となり、敵に襲われた本願寺十世の証如上人を門徒21人が犠牲となって助けた「本願寺騒動」は今も語り伝えられる。ノダフジはこの時焼かれたが、焼け跡からよみがえり、太閤秀吉が花見に訪れ、藤家の邸宅「藤庵」で茶会を催したと記されている。江戸時代になっても「野田の藤」は「吉野の桜」「高尾の紅葉」と並び称され見物客でにぎわった。
◇消失の間際に地元から復興に動く
明治以降も牧野富太郎が藤家の周辺のフジを調べ、ヤマフジと別種のノダフジと命名するなど、細々ながらフジは残っていたが、1945年6月の空襲でほとんどが消失。50年のジェーン台風でとどめをさされ、「野田の藤」は地元でも忘れられた存在となっていた。
しかし、70年代に入って大阪福島ライオンズクラブなど地域の人々がノダフジの復興に取り組み始め、ノダフジを区内の公園や学校、企業に広げる運動を続けた。当時第3副会長だった藤田正躬さんに生前の2004年にうかがったことがある。「小学校の百年誌でフジのことを初めて知り、阪神高速の建設に伴う立ち退きで庭がなくなる藤家を訪ね、かろうじて残っていた2本のノダフジの枝を挿し木用にもらったことが始まりでした。いま街を歩いてノダフジを見かけると、あの時取り組んでいて本当に良かったと思います」と当時82歳の外科医だった藤田さんは振り返っていた。
春日神社のすぐ東側の下福島公園では藤庵ゆかりの藤家の庭の一部が復元され、手前の藤棚でノダフジが垂れる。「聖天さん」で知られる福島聖天了徳院、小中学校の校庭と場所場所にフジの花はよくなじむ。
◇水と陽光、悪条件乗り越え花を咲かせる
しかし、せっかくノダフジを植えた「名所」でも木が弱って花が咲かなくなるなど問題が出てきた。「遠くからノダフジを見に行ったのに、公園にも思ったほどに咲いていない」「イベントで鉢植のノダフジをもらったが、自分で花を咲かせるのが難しい」といった苦情や相談が区役所などに寄せられるようになってきた。こうしたことから「福島区をフジの花でいっぱいにしよう」という有志の呼びかけに、連合町会、大阪福島ライオンズクラブ、福島区医師会などが賛同し、2006年に「のだふじの会」が発足した。
専門家に参加してもらって、ビルに囲まれ日当たりが妨げられるという悪条件の中で、ノダフジの花を咲かせるように研究。「ツルにまんべんなく日光が当たるように、とりわけ花芽が伸びる5月下旬から9月下旬にかけて伸びたツルをこまめに刈り込む」「土が少なく水の吸収が難しいので水やりは欠かさない」など都心ならではの栽培法がわかってきた。2010年からは大阪市西部公園事務所との契約で区内の公園のフジ棚の管理も行い、茂りすぎたフジの刈り込みなどを行っている。
こうした活動で、ノダフジが広まった各地の名木が開花するようになってきた。そのひとつが春日神社に里帰りした愛媛県宇和島市の名勝「天赦園」のノダフジ。参勤交代の途中、野田に立ち寄った伊達宇和島藩5代藩主が持ち帰った苗が成長したノダフジで、2000年にその苗木が里帰りしていた。同会玉川連合町会代表の広岡忠雄さん(72)らメンバーが毎日水やりや剪定に通い、昨年の春に春日神社で初めて花が咲いた。
広岡さんは10年前にコーヒー卸業を店じまいしてからノダフジの栽培の猛勉強に取り組んだ。「全国のフジの名所に出かけ、実地に話を聞いて花の咲かせ方を学びます。ノダフジの古里から来たということで、どこでも快く受け入れてもらえるのが嬉しいですね」と話す広岡さん。玉川だけでなく区内全域の路地裏まで回って鉢植のフジの様子を見て、声をかけている。
◇花房の向こうに街並みが見える
「のだふじの会」は、福島区全域のノダフジを観察、開花が一番早い「後藤邸」(玉川2)のフジを標準木として春日神社、聖天さんと続き、最も遅く開花するという野田中学校まで花期に幅があることから、サイトで各所の「開花予測」を発表している。
今年も4月28日にライオンズクラブの「のだふじウォッチングスタンプラリー」があるが、私は自分の都合に合わせて前日の27日、“のだふじウォーキング”を実施、同会のサイトに書かれた名所18か所を半日かけて回った。
予測のとおり今年は各公園での花のつき方はあまりいいとはいえず、3、4房しか見られない公園もあった。それでもコースに沿っては築地に続く食の中継基地・大阪市中央卸売市場本場、戦前の名残を留める海老江の街並みなど「ノダフジのある風景」を楽しめる。
「再生の手入れにかかっている下福島公園や聖天さんではあと2、3年すれば、もっとたくさんの花を見られるでしょう」。野田は昔も、今も、これからも日本のフジの古里だ。
(文・写真 小泉 清)
[参考図書] 藤三郎「なにわのみやび 野田のふじ」 東方出版、2006
★ノダフジ織りす人間模様を記録=2017.4.21取材
★ノダフジの甦り ラリーで確かめる =2017.4.22取材
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