紀伊大島・樫野碕の水仙   和歌山県串本町                

   
        紀伊大島・樫野碕灯台の水仙
         英国人技師が植えた水仙が周囲に広がる樫野碕灯台
・花期  12月中旬から1月末

・交通案内
 JR紀勢本線串本駅から熊野交通バスで樫野灯台口 、日米修好記念館や海金剛へは手前の樫野下車

・電話  串本町観光協会(0735・62・3171)

                            =2012年1月10日取材=
        
 
 本州最南端の地・潮岬の東側に横たわる紀伊大島。青い海、青い空をバックに水仙やツバキが咲き誇る島では、黒潮の海を通って育まれてきた海外との交流の歴史をたどることができる。

    本州南端の地に世界との出会い

 夜明けの橋杭岩 本州最南端の地・潮岬の東側に横たわる紀伊大島。青い海、青い空をバックに水仙やツバキが咲き誇る島では、黒潮の海を通って育まれてきた海外との交流の歴史をたどることができる。

 「仲を取り持つ連絡線」の歌で知られた紀伊大島も1999年の秋、くしもと大橋で串本の市街地と結ばれた。今回は串本駅前の観光協会で電動アシスト自転車を借りて南へ向かう。潮岬の東側からゆるやかなループを描く橋を渡っていく。大島に着くと中央を走る県道を東に向かうのだが、大島という名のとおり結構広く、東の突端の樫野碕までは10キロ近くの道のり。真ん中あたりの航空自衛隊レーダー基地までは登りなので、電動アシストを最強にしてこなす。

 ◇建設の英人技師が故郷しのび植える

 樫野碕の駐車場から東端に歩いて行くと、白亜の灯台が見えてくる。高さ15mとそう高くはないが、明治3年(1870)、近代の日本で初めて造られた石造の灯台、樫野碕灯台だ。灯台建設の中心となったのは当時まだ20代だった英国人技師リチャード・ヘンリー・ブライトン。彼らが手がけた灯台は幕末の英国公使・バークスの要求に基づき、二十数基にのぼる。その中で最も点灯が急がれたのがこの樫野灯台、次が潮岬灯台。熊野灘に面した本州最南端の串本の地が、日本近海の航行にとっていかに重要だったかがわかる。

  灯台守が執務室や住居として使った旧官舎は、2011年3月の修理の際に、建設当時の姿に再現。海に面した外壁は船から見えやすいように白く塗り分けられていた姿に戻った。ドアなどには「木目彫り」という珍しい技法が使われているという。内部の公開は土・日・祝日という看板が掲げられており、今回は残念ながら見られなかった。樫野碕灯台からの眺め

 由緒ある灯台を囲んで水仙が白と黄の花を開いている。ブライトンが遠い故郷をしのぶために植えたといわれ、地元の人が長年球根を植え足して本数は11万本を超える。花の向こうには熊野灘が光り、大きな船が花と花との間をゆったりと滑っていく。 灯台のまわりにはユズリハ、アコウなど暖帯性の木が繁っている。ところどころに真紅の椿のつぼみが濃い緑の葉の中から顔をのぞかせている。黒潮が洗う地だけに、真冬の中にも春が感じられる。

  ◇今に生きる遭難トルコ軍艦の記憶

 しかし、海はいつも穏やかな表情ばかりではない。熊野灘の厳しさを史実として伝えるのは、灯台の手前の広場に建つ「トルコ軍艦遭難碑」と、その近くにあるトルコ記念館だ。明治23年(1890年)9月16日、トルコ皇帝から明治天皇への特使ら609人を乗せた巡洋艦「エルトゥール号」が国への帰途、暴風雨に巻き込まれ、灯台南西の岩礁に激突した。大半は犠牲となったが、69人は灯りを頼りに崖をよじ登り、灯台や樫野の民家に救助を求めた。樫野の人々は迅速な対応と温かい支援で応えた。「海に生きてきただけに、いざという時は国の違いを超えて助ける気持ちが発揮され、受け継がれてきたのでしょう」と地元の人は話していた。

 エルトゥール号の遭難と救援はトルコでずっと教え伝えられてきた。イラン・イラク戦争が激化した1985年、イラクのサダム・フセイン大統領がイラン上空を飛ぶ飛行機を撃墜すると発表した際、日本政府は救援機を派遣せずに日本人が危険の中に足止めされたが、トルコ政府が「エルトゥール号のことは忘れていない」と救援機を提供した。

 今回、この地を11年ぶりに訪ねたのは、昨年10月、大阪市立海洋博物館で「よみがえる軍艦エルトゥール号の記憶」を見たことがきっかけ。2007年からトルコ海底考古学研究所のスタッフを中心に行われた発掘プロジェクトで引き揚げられた同船の遺物が展示され、609人の胃袋を満たした大鍋や船具など船や乗組員の息遣いが伝わってきた。メンバーとしてずっと撮影や展示を行ってきた水中カメラマンの赤木正和氏から多くの人のチームワークで進められたプロジェクトの話が聞け、水中考古学で世界屈指の水準を持つトルコの研究者のこの調査に込めた熱意がよくわかった。

 トルコ記念館にも発掘調査の説明があり、引き揚げ品の一部も展示されている。館のスタッフに尋ねると、引き揚げ品は大阪の後も巡回中で、その後の収蔵・展示場所は確定していないとのことだが、やはり遭難した岩礁を見下ろす“聖地”に立つこの記念館以外にはないだろう。
 
   ◇日米の早くからの接触、地元から伝える

 大島は日本と米国が最初に出会った地でもある。幕末のペリ−黒船来航より62年も前の寛政三年(1791年)、太平洋航路を求めた米国人、ケンドリックが率いる「レディー・ワシントン号」など2隻の商船が停泊、乗組員数名が水や薪木の補給に上陸したという史実が、戦後、米側の文書や紀伊徳川藩の藩史から明らかにされた。樫野の「日米修好記念館」では、米側から提供された同号の模型などを展示してある。

 この上陸については、田辺市在住のノンフィクション作家佐山和夫さんが米国での調査などから、同船は漂着ではなく、通商の目的で来航したと著書で指摘している。大島への来航がその後の歴史に影響することはなかった。しかし、1976年の独立から日が浅いアメリカの商人や航海者が、中国さらに日本に並々ならぬ関心を持っているのは、オバマ政権のアジア・太平洋重視政策がますます増大している昨今興味深い。

 11年前に訪れていた時に、長い棒で壁の資料を指し示して熱心に説明してくれた地元の年配の女性は引退されたとのことだったが、現在の女性スタッフも、米国船が停泊したといわれる前の浜への行き方などを親切に教えてくれた。各地で博物館の閉鎖や無人化が進む中、地元の史実を伝える館が運営されているのは嬉しい。(ただ、説明用の映像は、「初の米船来航」を取り上げた一昨年の民放テレビの録画を活用。本筋はわかりやすくまとめているが、コメンテーターの有名ジャーナリストが「幕末にトルコ商船が紀伊大島沖で遭難して救助されたこともほとんど知られていない」とエルトゥール号のことを誤って話していてがっくり。やはり、串本町か和歌山県が自前の正確な映像資料を用意してほしいものだ)。

 南紀の青い海と空が広がるこの紀伊大島では、、こうした世界とのふれあいを自然に受け止めることができる。世代を経て受け継がれてきた水仙は、今年も太平洋に向かって花を開いている。

                                 (文・写真 小泉 清)

 〔参考図書〕 佐山和夫「わが名はケンドリック」 講談社、1991