繁栄の残照の街、担い手広げ守り抜く祭                                                                    

  熊野水軍の伝統を受け継ぎ、江戸時代には紀州藩の鯨方が置かれた古座は、明治になっても古座川上流の木材や木炭の集積地として栄え、木造船の造船も盛んだった。しかし、林業の衰退や輸送ルートの変化、沿岸漁業の不振が重なって人口は減り続け、行政的には古座町は消えて串本町の一部となってしまった。熊野古道の大辺路や古座街道に沿って、炭問屋や旅館跡など繁栄の残照を留める町並みが続くが、空き家が目立つ。普段の日に訪れると、晴れやかな祭の日との落差から寂しさも感じてしまう。

 「河内祭も町の現況と無関係ではいられず、担い手が減って難しい状況に直面しています」と、長年、青年会などで祭を引っ張ってきた桝田さんは話す。御舟の櫓を漕ぐには高い技能が求められるが、漁業者が少なくなるうえ、今は日常櫓を使う機会がないだけ伝承は難しく、渡御も多くは動力を使わざるを得ないのが現実。御舟謡も部分的にテープを利用している。
古座の街中を行く河内祭のショウロウの列
 しかし、御船謡や獅子舞といった祭の中核については守り抜こうとする気持ちは固い。御舟謡は河内祭だけでなく、9月の古座神社の祭礼にも歌われ、年間を通して練習を続けている。御船謡は古座地区の漁業者だけでなく町外からの通勤者が習い始め、獅子舞には河内祭に参加していない隣接の中湊地区の中学生が笛方を務めるようになった。「担い手を確保するためには狭い地区意識や形式にはこだわらず、やる気のある人を受け入れてきています。これによって古座地区の外にも祭への関心も広がっていきます」と桝田さん。こうした柔軟さや開放性が、難しい環境の中で祭の本質の部分を存続させてきたのだろう。
 
  この祭は元は旧暦の6月初丑の日、次に旧暦6月15日、昭和になって7月15日だったが、1975年から7月24、25日に変更した。子供が参加しやすい夏休みに入ってからというのが主な狙い。当時青年会長だった桝田さんは「伝統にそぐわないという声も強く10年かけての変更でしたが、この時期になると天気が安定することもあって受け入れられました」と振り返る。ショウロウをはじめ祭の中での子供の役割の大きさ、祭の中で大きくなっていく子供の姿を見つめる街の人々の眼差しは厳しく、温かい。

↑ 街道沿いに古い家並みが残る古座の街を、背負われて当舟に向かうショウロウ(7月25日朝)

 古座を中心として展開する河内祭の華やぎ、そして祭を担う年配の人から子供まであらゆる世代の人々のつながりの強さ。祭の日だけが特別というのでなく、この日にこそ古座の本当の姿がよみがえっている気がした。そして日常の街にも、その姿はあるに違いないとも・・・。
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                                                  (記事・写真 小泉 清)                         

  〔参考図書〕
 古典と民俗の会「和歌山県古座の河内祭り」白帝社 1982
 岡本太郎著、山下裕二編「日本の最深部へ」ちくま学芸文庫 2011

         
                                                 
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