西国三番札所・粉河寺(こかわでら)のある粉河の町に入ると、紀ノ川の南にどっしりした山容の龍門山(756m)が迫ってくる。紀州富士の名で知られるこの山の上の蛇紋岩の岩場を、ここだけでしか見られないキイシモツケの白い花が包んでいる。
蛇紋岩の紀州富士に初夏の白はじける
紀ノ川にかかる龍門橋を渡り、ビワが実りだした果樹園の間の道を標高350mの中腹まで上がり、中央コースという登山道に入る。夏の到来を告げるウツギの白い花がまぶしい。登り始めは杉やヒノキの植林が目立つが、ほどなく自然林にうつりコナラやヤマナラシなどの落葉樹、ツブラジイシロダモ、ヒサカキ、イヌツゲなどの常緑樹が現れる。林床にカキノハグサという鮮やかなダイダイ色の花が目についた。
1時間ほどで蛇紋岩の巨岩・明神岩に着いた。ここで標高634m、北側の崖に張り出した赤褐色の岩の上に立つと紀ノ川とその流域に広がる緑野が見下ろせる。この岩を目印のように現れるのがキイシモツケの花。コデマリと似ているが、山道に垂れ下がるまでに長く伸びた房が、山頂に続く新緑の中で雪を散りばめたように輝いている。近づいて見ると直径1cmに満たない五弁の小さい花が集まり、虫を引き寄せている。アーチのようになった花の下をくぐって歩くのは心地良い。
明神岩の近くに風穴洞という深さ10mもの岩穴があるが、夏でも温度が8度以下に保たれるため、戦前は蚕の貯蔵庫にしていた。かつて龍門山は山頂近くまでの木々も柴刈りされ、里に運ばれていた。風穴洞の中にはもう入れないが、麓の人たちが暮らしの中でこの山を巧みに利用してきた証人としても重要だ。
オオバギボウシの大きな葉、リョウブの木のつややかな木肌がまぶしい道を一登りすると草原状になった頂上だ。北側の流紋岩の向こうにキイシモツケの群生が広がって斜面を雪原のように覆う。その向うには紀ノ川が蛇行し、さらに和泉葛城山をはじめ紀伊と和泉の国境の山並みが連なって紀北の景観を一望できる。
龍門山周辺にだけキイシモツケが見られるのは、この山が蛇紋岩でできているからこそ。植物の根が水を吸いにくくするマグネシュウムが含まれる蛇門岩地帯では普通の植物が育ちにくく、その分キイシモツケが広がりやすくなる
龍門山の蛇紋岩は半端でない。頂上から少し東側に下ったところに磁石岩という周囲17m、高さ4mの大岩がある。岩の南側から磁石を近づけると針が回りだしてN極が岩の方に振れる。北側では逆にS極が回り出す。名前の通り岩が巨大な磁石になっている。
ウリハダカエデなどの下の地面を這うように生えているのがカンアオイ。京都の葵祭、徳川家の家紋でおなじみのフタバアオイとも近い種の植物だ。深い緑の葉は、急ぎ足だと見落としてしまうが、一つ一つの葉で異なった網目の紋様が見られて面白い。龍門山に棲む日本固有の貴重種・ギフチョウの幼虫の唯一の餌がカンアオイで、この山の自然全体にとって欠かせない。
尾根を楽しく下っていくと田代峠に着く。ここに背の高いキイシモツケがあり、今シーズンのこの花と別れを告げる。西へさらに進むと飯盛山に達するが、ここは北へ下山路をとる。エゴノキの白い花が敷き詰められた急坂を下ると、小さい地蔵堂のある滝へ。後は谷道を進むと、登り口近くの桃畑に下り立った。
昔は龍門山南東の鞆渕の集落の人々が薪炭を背負い、田代峠を越えるこのルートで粉川の街まで運んでいたそうで、厳冬期には道が雪で埋もれて遭難する人も出たという。暮らしを支える道だけに、行き来する村人をお地蔵さんが見守ってきたのだろう。
◇カンアオイから育て「春の女神」再び舞う
粉河寺の門前に戻り、長く龍門山の自然の観察・保護活動を続けてきた辻田福男さん(82)を訪ねた。紀ノ川流域の小、中学校で教えてきた辻田さんは教師仲間だった仲谷濃さんらと「龍門山自然研究会」を運営、キイシモツケの保全を呼びかけてきた。
「昔は中腹まで広がっていたのですが、ハングライダー基地建設などの開発で群生地が破壊され、頂上近くに限られてきました。さらに山の手入れが行き届かなくなって木や下草が繁りすぎると、適度な日当りが必要なキイシモツケの成長が妨げられます。県の天然記念物には指定されていますが、きめ細かく守っていかないと」と指摘してきた。
さらに力を入れてきたのは、「春の女神」と呼ばれるギフチョウとその繁殖を支えるカンアオイの保全。20年ほど前から蝶マニアの乱獲に加え、カンアオイの減少で、龍門山のギフチョウは絶滅の危機にさらされてきた。「ギフチョウはカンアオイの葉の裏に卵を産みつけ、幼虫はその葉を大量に食べて育ちます。カンアオイの葉が少なくなる6月にはサナギになり、冬を越して山の桜が咲く4月に羽化するなど、ギフチョウとカンアオイのサイクルは一致しているんです」。
危機感を抱いた辻田さんは仲谷さんの遺志を受け継ぎ、捕獲禁止を呼びかけるとともに、山ろくの粉河ふるさとセンターでカンアオイを植え、卵からかえしたギフチョウの幼虫を育ててきた。2004年からは幼虫や成虫を山に還して、観察を続けてきた。
辻田さんとはこの年以来会っていなかったので、その後の動きを尋ねると、「当時の取り組みの効果が出てきたのか、ここ4、5年龍門山の自然の中での孵化や生育が軌道に乗ってきたようです。足が弱ってもう山の上までは登れませんが、今年4月に『山の上でギフチョウが舞っていましたよ』と聞いたときは嬉しかったですね」と話していた。
「龍門山自然研究会」は「龍門山の自然を守る会」に発展。会員も紀ノ川流域や大阪南部にも広がり、年4回は自然観察会を開いている。和歌山県も県立自然公園として保全策を強化、登山道や自然案内板を整備し、草刈も進めるようになった。
「守る会」の代表を次の世代にバトンタッチした辻田さん。、「キイシモツケやカンアオイの自生地は現在保たれていますが油断は禁物、役所任せではだめです」と情熱は衰えない。「生物はもちろん、龍門山には磁石岩など自然の姿をわかりやすく学べる場所がいっぱいあります。地元の学校の先生も、子供たちともっと龍門山の上に登って自然や歴史の学習に活用してほしい」と力を込めた。
(文・写真 小泉 清)
キイシモツケの花が覆う龍門山山頂。眼下に紀ノ川が流れる
◇案内情報
花期 5月中旬〜6月中旬
交通 JR和歌山線粉河駅下車(大阪方面からは南海高野線橋本駅乗換えが便利)。
登山口は駅から徒歩1時間、駅前のタクシーなら10分、1240円前後
問い合わせ 紀ノ川市役所(0736・73・3311)
2011年6月9日取材
会下山公園頂上広場から花越しに神戸の中心市街地を望む
和歌山県紀の川市
龍門山のキイシモツケ