南方熊楠邸のセンダン 和歌山県田辺市           

・時期 センダンの花期は5月中旬〜6月初頭の短い期間
・交通 JR紀勢線紀伊田辺駅下車、南西へ徒歩15分。駅前にレンタサイクルあり
・電話  南方熊楠顕彰館(0739・26・9909)、田辺観光協会(0739・26・9929)
  
=2011年5月17日取材

青葉を薄紫色に染めるように咲き始めたセンダンの花。熊楠が臨終で思い浮かべた花という
 
 
 粘菌研究をはじめ生物学、民俗学など幅広い分野で独自の世界を開いた在野の知の巨人・南方熊楠(みなかた・くまぐす)(1867−1941)。その研究の拠点となった南方熊楠邸は、城下のたたずまいを残す田辺市中屋敷町にある。熊楠の生前からの楠や柿の木が残る庭には、彼が終生好きだったセンダンが薄紫の小さな花をいっぱいつけていた

 野の巨人の足跡伝える木々

 400坪(1330平方m)の敷地のこの家は、熊楠が1916年(大正5年)から亡くなるまで住み続け、没後は妻の松枝さん、娘の文枝さんが守ってきた。文枝さんの遺志で田辺市に寄贈され、2002年から限定公開、06年には東隣に南方熊楠顕彰館ができて、熊楠邸も通年で見られるようになった。松枝さんの親類筋で、晩年の文枝さんを支えた橋本邦子さんに庭を案内してもらった。

 植物の命も限りがあり、熊楠が住んでいた時から生を保っている木は限られている。母屋と書斎の間にまっすぐに伸びている楠。熊楠が移り住んだ時すでにあった大木で、街中からも一際目立つ。「その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂しおり、炎天にも熟からず、屋根も大風に損せず・・・』と熊楠がたたえた木だ。熊楠の名は海南市の藤白神社にある楠の神木に依るだけに、この木への愛着はとりわけ強かったのだろう。

 庭の中央にある柿の老木も、熊楠の研究活動の証言者だ。地上1.4mほどの高さにくぼみがあり、ここに這い上がり成熟した粘菌が新種のミナカテルテロンギフイラ。普通の老木のように見えるが、腐った木だけでなく生きた木に育つ粘菌がいることを初めて示した貴重な木という。

  ◇「神島御進講」の日の朝も咲いていた

  しかし、この時期の庭の主役は西端で花を開いているセンダン。高さ20mを超す木の大きさに比べ、一つ一つの花の五弁の花びらは長さ1cmと本当に小さい。枝の先の方に咲いていて、薄紫の花は下から見上げてもあまり目立たない。しかし、少し離れて眺めると、木の上部の緑の葉が紫に染め上げられたように見える。

 熊楠が存命中に庭にあったセンダンの木は没後の戦時中に枯れ、この木は熊楠と交流の深かった人たちが再び植え直したものだ。それは、熊楠にとってセンダンが特別の思いのある花だったことを示す証でもある。

 照葉樹の広がる田辺湾に浮かぶ神島(かしま)の自然保護に熊楠は力を尽くし、昭和4年(1929)6月1日には天皇を島に案内して近くの艦上で御進講した。その時に神島にも自邸にも咲き「有り難き御世に樗(おうち)の花盛り」と詠んだのがセンダンの花。「天井に紫のきれいな花がいっぱい咲いている。医者を呼ぶと 消えてしまうので呼ばないでくれ」と文枝さんに頼んだのが熊楠最期の言葉だった。「この紫の花はセンダンのことだろうと文枝おばさんは言っていました。華やかな色の花よりも、こうした色の花が好きだったそうです」と橋本さんは話す。

 楠の木の西側には高さ5〜6mの安藤ミカンの木がある。田辺藩の安藤氏の屋敷に植えられていた安藤ミカンは熊楠存命中は3本の木があり、英国生活の影響で洋風の食事が好きだった主は、さっぱりしたこのミカンのジュースをよく飲んでいたという。熊楠は近くの農家に安藤ミカンの栽培を熱心に勧め、彼の田辺での活動をよく物語る木だ。元の木は熊楠が亡くなって1年後に枯れたが、お手伝いさんの実家の農家に挿し木で移されていて、今の木が3代目として伝えられている。ただこの木も柑橘類としては高齢の樹齢30年を超え、4、5 年前から開花しなくなり、実もつかなくなったのは残念だ。
 

◇主なき後も園の花々再び

 昭和24年生まれの橋本さんは直接熊楠を知らないが、箱造りの職人だった母方の祖父は熊楠の妻の松枝さんのいとこにあたり、粘菌の標本箱をつくるなど熊楠と親しかったという。家も近かったことから、橋本さんは幼い時、毎日のように松枝さんのいる家に遊びにきていた。

 橋本さんはここ10年、熊楠の日記の原本を判読して、熊楠がこの家に移ってからどんな植物を手に入れ譲り受けては、どう育て、見てきたかを調べてきた。年を追って10ページにびっしりまとめられた表を見せてもらうと、1919年には「平瀬作五郎氏より贈られたる種子より生えしエイザンスミレ白色の花一つ咲く」という記述もある。平瀬といえば東大助手でイチョウの精子発見という世界的業績を挙げながら中学教員になり、当時は熊楠とマツバランの共同研究をしていた人物。庭の草木を通じて交友関係も映し出される。橋本さんはこうした記録と幼時の記憶をもとに熊楠の庭の再現図も描いていて、現在の庭の図と比べながら案内してもらえるのは楽しい。

 「熊楠が移ってきた時、庭はすでに木がいっぱい茂っていたので、新しい植物の多くは鉢植えにし、母家の前に作った二段の棚に置いていました。私が遊んでいたころにも棚は残っていました」 。橋本さんは熊楠が住んでいた時に植わっていた植物を手に入れ、母屋の前の鉢で増やしている。「庭でルーペを手に腰をかがめて粘菌を観察して歩いた熊楠にとって、研究園のこの庭は熊野の森の縮図だったのでしょう。一方で、日記の中でさまざまな草木の記述を読むと、くつろいで花を楽しんでいた様子もうかがえます」と橋本さんはいう。

 熊楠邸の庭は、熊楠自身の生涯で完結したものではない。太平洋戦争開戦直後に主を失った庭は、戦局の悪化とともにイモ畑とされ、防空壕が掘られて荒れていった。戦後復旧が進んだ1950年代以降になって熊楠ゆかりの人々やその家族が、熊楠邸にあった木を挿し木などの形で持ってくるようになった。その後、結婚で東京に移っていた文枝さんが1975年に田辺に戻り、庭をよみがえらせようと心を傾けた。今の庭は、熊楠を支え、交流してきた幅広い人々の所産でもある。

 隣の南方熊楠顕彰館では熊楠関連の資料や書籍が閲覧できるので、邸宅と併せて熊楠の世界に浸ることができる。館と邸宅を運営する顕彰会事務局の担当者に尋ねると「熊楠が住んでいた当時を思い浮かばせるように復元したもので、庭に植える草木も、もともと南方邸にあった植物に限っています」とのことだ。大変いい理念だが、庭にも置かれた音声観光ガイドの看板がやや目立ちすぎるので、デザインや配置などひと工夫できないかというのが私の感想だ。

 熊楠の活動の場は、熊野に限っても広く深い。熊楠と彼をめぐる人々の人生が詰まったこの家を出発点に、枠を超えて自然と人間を見つめ行動した人の足跡をたどっていきたい。
                 
 (文・写真 小泉 清)

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