南方熊楠邸のセンダン 和歌山県田辺市 ![]() |
||||||||||
![]()
|
||||||||||
粘菌研究をはじめ生物学、民俗学など幅広い分野で独自の世界を開いた在野の知の巨 ![]() 野の巨人の足跡伝える木々![]() 植物の命も限りがあり、熊楠が住んでいた時から生を保っている木は限られている。母屋と書斎の間にまっすぐに伸びている楠。熊楠が移り住んだ時すでにあった大木で、街中からも一際目立つ。「その下が快晴にも薄暗いばかり枝葉繁茂しおり、炎天にも熟からず、屋根も大風に損せず・・・』と熊楠がたたえた木だ。熊楠の名は海南市の藤白神社にある楠の神木に依るだけに、この木への愛着はとりわけ強かったのだろう。 ![]() ◇「神島御進講」の日の朝も咲いていたしかし、この時期の庭の主役は西端で花を開いているセンダン。高さ20mを超す木の大きさに比べ、一つ一つの花の五弁の花びらは長さ1cmと本当に小さい。枝の先の方に咲いていて、薄紫の花は下から見上げてもあまり目立たない。しかし、少し離れて眺めると、木の上部の緑の葉が紫に染め上げられたように見える。熊楠が存命中に庭にあったセンダンの木は没後の戦時中に枯れ、この木は熊楠と交流の深かった人たちが再び植え直したものだ。それは、熊楠にとってセンダンが特別の思いのある花だったことを示す証でもある。 ![]() ![]() 楠の木の西側には高さ5〜6mの安藤ミカンの木がある。田辺藩の安藤氏の屋敷に植えられていた安藤ミカンは熊楠存命中は3本の木があり、英国生活の影響で洋風の食事が好きだった主は、さっぱりしたこのミカンのジュースをよく飲んでいたという。熊楠は近くの農家に安藤ミカンの栽培を熱心に勧め、彼の田辺での活動をよく物語る木だ。元の木は熊楠が亡くなって1年後に枯れたが、お手伝いさんの実家の農家に挿し木で移されていて、今の木が3代目として伝えられている。ただこの木も柑橘類としては高齢の樹齢30年を超え、4、5 年前から開花しなくなり、実もつかなくなったのは残念だ。 ◇主なき後も園の花々再び昭和24年生まれの橋本さんは直接熊楠を知らないが、箱造りの職人だった母方の祖父は熊楠の妻の松枝さんのいとこにあたり、粘菌の標本箱をつくるなど熊楠と親しかったという。家も近かったことから、橋本さんは幼い時、毎日のように松枝さんのいる家に遊びにきていた。![]() 「熊楠が移ってきた時、庭はすでに木がいっぱい茂っていたので、新しい植物の多くは鉢植えにし、母家の前に作った二段の棚に置いていました。私が遊んでいたころにも棚は残っていました」 。橋本さんは熊楠が住んでいた時に植わっていた植物を手に入れ、母屋の前の鉢で増やしている。「庭でルーペを手に腰をかがめて粘菌を観察して歩いた熊楠にとって、研究園のこの庭は熊野の森の縮図だったのでしょう。一方で、日記の中でさまざまな草木の記述を読むと、くつろいで花を楽しんでいた様子もうかがえます」と橋本さんはいう。 熊楠邸の庭は、熊楠自身の生涯で完結したものではない。太平洋戦争開戦直後に主を失った庭は、戦局の悪化とともにイモ畑とされ、防空壕が掘られて荒れていった。戦後復旧が進んだ1950年代以降になって熊楠ゆかりの人々やその家族が、熊楠邸にあった木を挿し木などの形で持ってくるようになった。その後、結婚で東京に移っていた文枝さんが1975年に田辺に戻り、庭をよみがえらせようと心を傾けた。今の庭は、熊楠を支え、交流してきた幅広い人々の所産でもある。 ![]() 熊楠の活動の場は、熊野に限っても広く深い。熊楠と彼をめぐる人々の人生が詰まったこの家を出発点に、枠を超えて自然と人間を見つめ行動した人の足跡をたどっていきたい。 (文・写真 小泉 清) ⇒トップページへ |