南紀の山あいを貫く古座川沿いの道をさかのぼり相瀬トンネルを抜けると、対岸に大屏風のようにそびえる巨岩が現れる。高さ100m、幅500mの国の天然記念物「古座の一枚岩」だ。黒っぽい鉄さび色の単一の岩体が広がる姿に圧倒される。岩壁のところどころを緑が覆い、よく見ると白く光った点が目につく。
人寄せ付けぬ大岩壁に孤高の気品
「あの白いところがセッコクの花です」。すぐ上流の洞尾(うつお)に住み、長年、自然公園管理員を務めてきた田上實(たのうえ・みのる)さん(82)が教えてくれた。野生の蘭の一種で岩や木の上に生えるセッコクは、蘭愛好家の中でも人気が高い。一枚岩観光物産センターで望遠鏡をのぞくと、確か真白な花の群生が見えた。
セッコクの花を近くで直接見たいが、一枚岩は対岸に切り立ち、正面から花に近づく道はありそうもない。そう思っていると、田上さんが一枚岩の北端にある「どんどろの森」に車に乗せて連れて行ってくれ、垂直に近い傾斜の一枚岩の急崖に張り付くように咲くセッコクの花がくっきりとらえられた。一番低い場所でも7、8m。そこから上部に駆け上がるようにセッコクの群生が続いている。この岩場の花は白がほとんどで園芸種に見られる華やかさはないが、人を寄せ付けない岩壁に咲く孤高の姿には飾り気のない気品が感じられる。
◇流域焼き尽くした戦時下の大火
気温と雨に恵まれた古座川流域の深山はセッコクの格別の生息地なのだろう。一枚岩は紀州出身の八代将軍吉宗が本草学者を古座川流域の調査に派遣した際広く知られるようになったが、調査の第一の目的は鎮痛薬などに使われた貴重な薬草セッコクの採取だったともいわれる。地元で薬草として採ることはなかったが、以前は富山などの薬関係の人たちが遠く採取に来ていたという。
園芸用に人気のあるセッコクの野生種は全国的に乱獲され、一枚岩周辺でもロープを使って採った形跡がある。それでも切り立っただけでなく、硬い流紋岩質凝灰岩で、手がかりにする裂け目もない文字通りの一枚岩だからこそ、侵入者の登高を拒み、群生地が保たれてきたのだろう。
太古から続く一枚岩を巡る自然にも危機があった。大戦中の昭和18年、古座川源流の真砂で発生した山火事は「バスが来るより速く」広がって川下に至る流域の山林を一週間焼き、一枚岩周辺の動植物のほとんどを燃やし尽くした。「あれから70年近く、一枚岩のセッコクは年々回復して殖えてきているようで嬉しいですね」と田上さんは話す。
一枚岩周辺は、紀伊半島南部の限られた地域で見られるキイジョウロウホトトギスの自生地だ。田上さんらは近隣の町を含めて「キイジョウロウホトトギス同好会」を結成、保存と将来の商品化を目指して自宅の石垣などで栽培を行っている。高貴な女官・上臈(じょうろう)にたとえられる上品なで鮮やかな黄色の花を咲かせる秋が楽しみだ。
◇細りゆく 清流のもたらす恵み
絶滅も危惧された植物については明るい見通しが出てきているが、古座川とともの育ち生きてきた田上さんにとって気がかりなのは、上流での七川ダム建設による水質の変化で魚が激減したことだ。川釣り名人の田上さんはモドリ、縄延(なわはえ)などさまざまな道具や手法を駆使してアユ、カワウナギ、アマゴなどを捕ってきた。しかし、昭和31年に七川ダムができてから「ダムの底の泥が下流に流れて岩のすきまを埋めてしまうため、そこをすみかとするカワウナギなどが少なくなりました。昔は一晩でウナギを2キロ、大型にすると8尾ほどは獲れたのに、今では1年を通しても10キロ程度。釣りは、趣味としてやっていて釣った魚は知り合いに分けていますが、これくらいの漁では生業としては成り立たちません」と話す。
ダムで水を底から取水すると泥を巻き上げて水質を悪くするだけでなく、水温の低い水が流れてアユの成長にも悪影響を与えるという。田上さんら古座川町の住民でつくる「古座川の清流を守る会」では、これを防ぐため、その後に建設されたダムでは行われている表面取水の導入を働きかけていく。
◇激流越えてきた古座川最後の筏師
今も釣舟を自在に繰る田上さんは、10歳のころから父を手伝って長さ30尺(9m)の舟を繰って古座川を下った。河口に近い高瀬まで炭を運び、家で営む雑貨店で売る商品や米を積んで戻った。「下りは4時間くらいで行けましたが上りはきつく5、6時間かかりました。夜明け前に出て、日が暮れたころ戻る一日仕事でした」と振り返る。一枚岩の裏側には古座街道が通っていたが、険しい箇所も多く、古座町から車の通る道が通じたのは昭和10年過ぎだった。
古座川は上流で切り出した木を丸太のまま流したり、筏に組んで運んだりする幹線だった。田上さんも昭和20年代までは筏師として河口まで下った。「一枚岩の先に渦を巻く難所があり、川に落ちて筏の下をくぐったことも何度かあります。危険な分、日当は山仕事より2割方高かったですね」。戦争中は軍需用に回されていたトラックが戦後復興とともに林道に入るようになった。木材輸送のルートも川から陸上に切り替わって、田上さんも20代の若さで筏を下りた。
林業の低迷とともにかつて30戸が住んでいた洞尾の集落も一時は4戸までに減った。7年前から森林組合の緑の雇用事業で都会から来た人たちが古座川流域で林業に携わることになり、洞尾の入り口に住宅ができ、集落の住民も5戸15人が増えた。小学校や幼稚園に通う子もいて、少し明るさが出てきたが、10年後に集落がどうなるかについては、まだ確かな展望は見えてこないという。
それでも、陽春の古座川流域ではスダジイなどの新緑が映え、ヤマフジが力強く伸びている。さまざまな花の蜜を吸うニホンミツバチの分蜂の季節でもある。川には今年もカワウナギが遡り、間もなくアユがやってくる。本当に清く豊かな古座川を取り戻そうという思いを語る田上さんの表情には、急流の中で筏を繰った古座川の筏師の精悍さがよみがえってくる。 (文・写真 小泉
清)
〔参考図書〕 「古座川町史 民俗編」 町史編纂委 2010
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