会下山(えげやま)の桜 神戸市兵庫区 ![]() |
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16年前の冬、大地震が襲った神戸市兵庫区の街並みの中に浮かぶように広がる会下山(えげやま)公園。街の人々にとって最も身近なお花見どころだったこの丘には今年も1500本の桜の花が咲き進んでいた。大震災乗り越え「花の雲」再び私にとって花の季節にこの丘の坂道を登るのは28年ぶりだ。新聞社の駆け出し記者として恒例の「サツ回り」(所轄警察担当)を始めたのだが、その最初の持ち場が200mほど南の兵庫署だった。気さくな街の雰囲気になじんで所帯を持っての住まいは、丘のすぐ南の松本通のマンションを選んだ。阪神大震災の時は他所に移っていたが、2か月後に訪ねて地震後の火災で焼け野原になった通りを見て呆然とした。![]() 私とってのお目当ての桜はほとんどがソメイヨシノ。まだ三分咲きくらいで、今年は10日過ぎでも花見が楽しめそうだ。特に珍しい品種があるわけではないが、会下山の花見の魅力は花越しに見る眺め。一番高いところは標高85m、南面は東から西へ神戸の市街地が見渡せる。一方、北側に回れば菊水山など西六甲の山並みの眺めが楽しめる。 楠正成が九州から逆襲してきた足利尊氏の大軍を迎え撃とうとして湊川の戦いでここに陣を敷いたこともうなずける。山頂広場の手前には昭和五年に建てられた「大楠公湊川陣之遺蹟」の巨大な碑が直立している。神戸の在郷軍人会が建て、揮毫者として「元帥伯爵東郷平八郎」の名も刻まれている。皇国史観の評価は別として、戦争に向かう中、楠正成が精神高揚にどう利用されてきたかを見る貴重な遺跡となっている。 ◇被災者に食材、ガス復旧と同時に店再開 撮影場所を探してうろうろしていると、「この階段のあたりからが一番いいですよ」と前から散歩してきた人が声をかけてきてくれた。会下山の北の菊水町に住む黒木栄一さん(77)。中華料理店を70歳の誕生日にたたんでから毎朝1〜2時間歩きに来ている。一緒に歩きながら話をうかがうと…。郷里の鹿児島でマグロの遠洋漁業船の乗組員だった黒木さんは20歳で神戸へ。希望していた造船所入りはかなわず、新開地の中華料理店に入った。父の反対を押し切って出てきた以上帰れないと懸命の働きが認められ、10年後にのれん分けをしてもらった。阪神大震災では店が半壊、食器がほとんど割れ、中華料理に不可欠なガスが47日間止まったため休業を余儀なくされたが、この間は食材を被災者に提供し、やる気を奮い起こして再建の融資を受け、ガスの復旧と同時に営業を再開した。朝から晩遅くまで店に打ち込んでいた時も、一息ついた時に会下山に来ると心がほっとしたという。 黒木さんはこの3月の彼岸、全線開業したばかりの九州新幹線で父の墓参りに帰郷した。「40過ぎで帰郷した時、父が『よう頑張った。お前は間違ってなかった』と言ってくれました。今回は鹿児島まで3時間半で着きましたが、20時間かけて神戸にやって来た時のことを思い起こしました」と話して散歩を続けた。年配の方にとって会下山の花見は節目の年のことを思い起こし、自らの立ち位置を再確認する時でもあるのだろう。 ![]() 写真の横には「東日本大震災義援金御協力ありがとうございました。\123,777」と張り紙されていた。「あすにも市役所に届けるんです」と体操の会のメンバー。誰よりも震災の厳しさと復興への力を知っている人々の思いのこもった贈り物だろう。 ◇樹勢に衰え、若返りめざす ![]() 昭和30年代初めに「神戸印刷若人会」の青年らがソメイヨシノの幼木を植えたのが、会下山公園を神戸きっての花どころに押し上げたきっかけという。その木が育った昭和40年代から50年代が会下山の桜のピークで「このころは兵庫駅からでも『桜の雲』のように見えました」という。しかし、ソメイヨシノは成長も早いが老化も早く、昭和から平成に入ると衰えが目立ってきた。震災の仮設住宅が撤去された平成11年末には、「ラジオ体操会」を母体にできた会下山公園管理会を中心に、桜の苗木を植える「サクラの園づくり」を進めてきた。 ![]() ここには震災を乗り越えてきた人々の力がある。ラジオ体操の前から水やりなど桜の世話を続けている管理会のメンバーもいるそうだ。時間はかかっても新たな魅力を備えた桜の丘ができていくに違いない。 (文・写真 小泉 清) ★牧野富太郎の足跡よみがえる |