万葉の時代から連なる深紅の輝き
「巨勢山(こせやま)のつらつら椿つらつらに 見つつ偲ばな巨勢の春野を」。持統天皇が飛鳥京から牟婁の湯(白浜温泉)に行幸した701年の秋、お供の坂門人足(さかとのひとたり)がツバキの木々を眺め、花の咲く時季を思って詠んだ歌という。この巨勢道が残り、古代の有力豪族・巨勢氏の本拠地だった奈良県御所市の古瀬(こせ)一帯では、今年も万葉の歌ゆかりのヤブツバキが咲き始めていた。
近鉄吉野口から歩いて10分の阿吽寺(あうんじ)をまず訪ねた。巨勢氏の勢いが衰えた平安時代に阿吽法師が開いた寺で、本堂や山門の基礎に巨勢寺の基壇の石が使われ、今は礎石と瓦しか残っていない大寺・巨勢寺の跡をとどめている。犬養孝さんの筆による万葉歌碑が建てられ、樹齢200年と伝えられる山門脇の古木をはじめ境内にはツバキの木が多い。寺の山号は「玉椿山」というように、裏山には日本古来の照葉樹林に自生していたヤブツバキの樹林が広がっている。
今年は3月になっても寒さが続いたためか、ヤブツバキで開いている花はまだ一部だが、濃い緑の厚い葉と白っぽい幹の中に真紅の花びらと金色の花芯が浮かび上がっている。冬から春へうつる時季に鮮やかな花を見せるツバキに、古代人が強い生命力を感じていたことは不思議ではない。万葉集の歌が詠まれた1300年前には、この山も杉やヒノキの木が混じっておらず、もっと多くのヤブツバキが連なっていたことだろう。
見晴らしの良い裏山の中腹には1979年に建てられた旧葛村の忠魂碑があり、前面の碑には日露戦争から太平洋戦争(碑文では大東亜戦争)までの戦に村から出征し戦没した200人近い人の名が刻まれている。その前の広場には十数本のツバキの木が植えられ、白、薄紅色、紅の花を開いていた。
阿吽寺は江戸時代から住職が無住の時期が多かった。5年前に訪ねた時は電力会社を定年退職後に高野山で仏門に入った方が住職を務め、さまざまな種類のツバキの鉢植えを集めたり、寺の隣の休耕地を借りて、ツバキの苗木を育てていた。秋になるツバキの実を集めて業者に渡し、髪結いなどに使う椿油にして「玉椿」の名で地元の人にも配り寺にも置いて好評だった。残念ながら家族の健康問題で寺を去ったため、寺は無住に戻り今回は本堂も閉ざされ、苗の栽培地も藪におおわれていた。
寺を管理している古瀬自治会阿吽寺委員会の委員長・益田三郎さん(76)を、益田さんが営む駅前の食堂に訪ねた。江戸時代から明治にかけて廃寺になっていたこの寺は、宗旨を超えて地元の人たちがを復興、1985年には本堂を再建して、平安時代から室町時代にかけて造られた仏像3体をボロボロの状態から修復したという。現在、4月18日の観音祭の準備や、団体参拝者から要請のあった時の本堂の開扉も委員会で行っている。
裏山のヤブツバキの多くは20年ほど前、御所市が観光対策として地元に提供した苗木200本が育ったもの。同時に植えたソメイヨシノは病虫害で枯れた木が多いが、ヤブツバキは元気だという。月に1回、古瀬の人々が清掃や草刈りを続けてきた。「自治会の役員は2年ごとの交代なので、堂を常時開いたりツバキを増やすことは難しいのが実情です。前のように住職として入ってもらえる方がいれば一番いいんですが…」と益田さん。それでも「寺とともに現在あるツバキは守り引き継いでいきたい」と話していた。
阿吽寺の本堂前には、御所市の「巨勢の道」コースの案内地図が積んであったので、これを参考にして近辺を回ってみた。吉野口駅西側の巨勢寺跡の方へ歩くと街道沿いに格子窓の残る古い民家が連なる。代々庄屋を勤めた旧家の広い庭跡には、樹齢600年と古瀬一帯で最も長命とされる古木があり、幹周りも1mを超えてツバキとしては大木だ。十年ほど前から勢いが弱ってきたそうだが、老木は春を忘れていないかのように大きく広がった枝先にぽつぽつと花をつけ始めていた。
◇邸内の古墳石室で古代を体感
江戸時代になってからも巨勢道は南大和から高野山への参詣道として使われ、道沿いの家は昼の休憩場所となったという。紀州徳川藩の参勤交代の道ともなり、幕末には高取城の戦いで敗れた天誅組がこの道伝いに敗走するなど時々の歴史を刻んできた。
その巨勢道をあと南へ2キロほど水泥(みどろ)の集落まで歩いた。ここには6世紀に築かれた国指定史跡の水泥北古墳と南古墳が並ぶ。北古墳は西尾興右さん(71)の邸内の庭にあり、前日にお願いしていたところ妻の幸さんとともに快く案内いただいた。築山となっている円墳に、全長13・4mの横穴式石室が大きな花崗岩で築かれ、中に入ると、奥深さが体感できる。母屋や門は幕末に近い170年ほど前の建造だが、その前後に庭を整えた際、古墳が判明したそうた。私邸の中の国史跡の古墳は珍しいが、高杯などの須恵器や金銅の耳環などの出土品を並べた「展示室」もあり、保全・管理にとどまらず一般人にも公開し、説明までしてもらえることはありがたい。
北古墳より少し時代が下る南古墳も、家から50m離れた道沿いの西尾さんの土地にあり、石室に入れてもらうと、手前の石棺の蓋に蓮の花をかたどった六弁の蓮華紋がくっきりと見えた。古墳文化の中に仏教文化が入ってきたことを示す貴重な証拠とされている。この石棺は加古川流域で切り出された凝灰岩(竜山石)、奥の石棺は二上山の凝灰岩が使われ、違いがよくわかる。
両古墳は「日本書紀」などの記述から蘇我蝦夷・入鹿親子の墓という説が有力だったが、近年、出土品から築造時期が大化改新前の6世紀と判定されたため、この見方は否定された。巨勢氏にかかわる人物かどうかの確証もないが、播磨から石を運んできているのだから、ここに眠っている人が相当の力と権威のある豪族だったことは間違いないだろう。
直径25mの円墳の南古墳の丘の中腹には五色椿の古木があり、白い花びらに赤みがかかった気品のある花が二輪、三輪と開き始めて古墳を飾っている。正面のヤブツバキは西尾さんらが十数年前に「万葉の歌にちなむツバキを」と植えた木が育ったものだ。「この土地にツバキにまつわる言い伝えや家訓が特にあるわけではありません」と西尾さんらはいうが、古墳をはじめ歴史の遺産を自然な形で受け継いできた人々の気持ちがあって、万葉のツバキが今の巨勢道に連なっているのだろう。
このページは2011年5月本スタートの予定です。
巨勢道のツバキ
奈良県御所市
◇案内情報
花期 3月上旬〜4月中旬
交通案内 近鉄吉野線(大阪阿部野橋始発)またはJR和歌山線の吉野口駅下車
問い合わせ 御所観光協会(0745・62・3346)
2011年3月23日取材
☆ギャラリー
巨勢寺の跡をとどめる阿吽寺の境内で開花したツバキ