「校区探検」から戦争の傷跡学び続ける   澤田作哉さん自画像    
 
  1945年6月7日、豊中空襲で39人もの住民が亡くなった玉井町地区。その歴史を伝えようと昨年のこの日に説明板が除幕された玉井町2丁目第二公園に、戦後78年の2023年6月20日、豊中市立克明小学校3年生の児童60人が訪れた。

  この学年で行なう「校区探検」の北まわりコース。学校から豊中駅、「高校野球発祥の地記念公園」とまわって第二公園に到着した。担任の先生ら3人の引率で説明板の前にすわり、学校支援コーディネーターの竹林久榮先生の話を聞いた。

 「25年前、この公園で防火水槽の工事をしていた人が『これはなんだ』と地中を探ると、1トン爆弾の不発弾とわかりました。刀根山や箕面でも見つかり、『戦争はまだ終わっていない』と思いました」と始めた。玉井町での空襲の犠牲者の多くが女性と子どもだったことを踏まえ「戦争が起きると、公園で遊んだり、木陰で赤ちゃんがお母さんと過ごすことも、学校で楽しく勉強することもできなくなります」と話した。

 続いて「今、世界では戦争が続いてますが、日本は80年以上前にはいくつもの国へ兵隊を送り戦争をしました。原子爆弾を落とされるなど悲しい出来事があって戦いを止めました。戦争を二度としないと約束して、平和を守ってきましたが、戦争は忘れたころにやってきます」。「豊中にはここだけでなくいろんなところに戦争の跡が残っているので、地元の人に尋ねたりして学び、大人になって戦争を止める力をつけてください」と語りかけた。

 終戦前年に生まれ、教員を退職後も平和学習を担ってきた竹林さんは写真や絵を掲げながらわかりやすく説明。児童らは驚きの声をあげたり、持参した“フィールドノート”に場所やポイントを書き込んでいた。

 
◇豊中空襲展示や広島修学旅行の報告会も

 克明小では、戦争と平和を学び考える取り組みを続けている。今年も6月に入ると給食室前に豊中空襲についての展示コーナーを設け、戦争中の学校での防火訓練の写真や、校区の人たちが寄贈した防空ずきんなどの品々、先輩たちが空襲体験者から聞いた話のまとめを展示している。5月には6年生が広島へ修学旅行、原爆資料館などで見聞きし感じたことを報告会で他学年の児童に伝えた。

 玉井町での空襲についても、克明小(当時は明徳国民学校)児童を含め16人が亡くなった日本生命社宅の慰霊碑が建っていた2006年まではその前で説明。撤去後も隣接する高校野球記念公園で語り継いできた。

 地元の住民としては、克明小がこうした取り組みを絶やさず続け、特に説明板が生かされていることはありがたいし、半世紀以上前の卒業生としては誇らしい。限られた時間でも、仲間や先生とともに探検したことは、子どもたちの心にずっと残るだろう。
(2023年6月20日取材=文・写真 小泉 清)
  

  ⇒本文「豊中空襲記憶の絵 公園の説明板に」