丹波の植物究明、若手の志燃やした牧野富太郎   澤田作哉さん自画像    
 
   梅雨の晴れ間の5月の最終日に六甲山上へ。高山植物園では晩春から初夏にかけての花がいっぱい。下向きの花をたわわにつけるサラサドウダン、湿地に広がる黄橙色のニッコウスゲ、ヒマラヤの青いケシ(メコノプシズ属)=写真右=など、ガイドさんの説明を聞いて回れば時を忘れる。 

◇縁深い六甲高山植物園に「ゆかりの植物」
 
 六甲高山植物園は、牧野富太郎(1862-1958)が1933年の開園直後から講演に訪れるなど縁が深いとか。牧野が主人公のモデルのNHK朝ドラ「らんまん」に合わせてイベントを開催、牧野が六甲山で発見、命名したアリマウマノスズクサ、日本アルプスの高山帯に育つミヤマムラサキ=写真左=など「牧野ゆかりの植物」として特に紹介している。

 同園のショップ棟と西隣の森の音ミュージアムでは、植物を求めて全国を歩いた牧野の兵庫県での足跡を、交流した人々が残した文書や写真で紹介している。兵庫県の植物研究を進めた灘中教諭川崎正悦氏、支援者の宝塚市の薬種業日下久悦氏の資料も興味深いが、丹波篠山市の植物研究家で、牧野を案内した樋口繁一氏(1910-1995)が伝えた品々も豊富な内容。提供した長男の清一さんは、私にとって丹波の自然を度々教えてもらった先生で、じっくり観覧した

◇年の差50越え交流、地元の宝案内

 清一さんが聞いた話では、繁一さんは池田師範(現・大阪教育大)の学生だった1931年に箕面での採集会で牧野と出会い、植物に対する博識と情熱に魅了された。それまでも師範の先生から植物学の指導を受けていたが、この時に一生をかけて探求していこうと決意を固めた。

 小学教師となり、大阪府熊取町で2年間勤務して郷里に戻ってからは丹波の植物調査に没頭した。36年には三田市永沢寺の調査に参加、37年8月には兵庫県の最高峰氷ノ山に登って採集し牧野との交流を深めた。氷ノ山には硯と筆を持参してサイン帳や寄せ書き=写真上=に書いてもらうなど、「追っかけ」顔負けで牧野に学ぼうとした。そして、丹波の植物研究に自信をつけた1938年5月には牧野を丹波篠山に招き、多紀アルプスの小金ケ嶽にも登って希少なトケンランの観察やシャクナゲの採集を案内した。

 牧野(右)と繁一が並んだ記念写真=左=は、宿泊先の丹波篠山の老舗旅館「近又楼」の庭で撮ったもの。ここで牧野に喜寿を記念して書いてもらった書もある。その時牧野の雅号「結網」のいわれを尋ねた樋口繁一さんに、牧野は帰京後が書を送った。「淵に臨みて魚を羨むは 退きし網を結ぶに如かず」。11歳の時に漢学塾の師・伊藤蘭林から学んだ漢文の一節に感銘を受け、生涯座右の銘としたことばだ。 

 その後、牧野から送られたはがきを見ると、50歳の世代差と関係なく、植物を通した交流を大切にしていた牧野の人となりがうかがえる。

◇「気さくで子どものように動く人だった」 

   戦中戦後と時が流れ、牧野が丹波篠山を再訪する機会はなくなった。しかし、繁一さんは20代の時に牧野から影響を受けた植物学への志を持続し、牧野の流れをくむ京都大の田代善太郎らと協力して丹波の植物研究の第一人者となった。昭和10年発行の「牧野植物図鑑」はぼろぼろになるまで読み込まれていた。送られた書は床の間にずっと掛けていた。

「牧野博士が亡くなられた時、『気さくで、子どものようにふるまわれる人だった』と振り返っていました」と長男の清一さんは話す。

 その清一さんは、繁一さんに採集に連れていかれるうちに自然と植物が好きになった。高校教師を務める一方、丹波の植物の研究や保全、市民への教育活動を続けてきた。
 「若いころ赴任していた高校の教え子から『牧野富太郎の話をよくしていた』と聞いた。あまり記憶になかったが、父を通じて牧野博士の偉大さを感じていたのかと改めて思いました」。

 牧野が全国で応援した地域の人々が地元の植物を学んでいく活動は、脈々と息づいている。=2023年5月31日取材 (小泉 清)
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 牧野富太郎関連の展示は、ともに8月15日まで。撮影は原則可
  六甲高山植物園        電(078・891・1247)
  ROKKO森の音ミュージアム 電(078・891・1247)
   
     
        ★多紀連山・御嶽のクリンソウ   2011.5.21取材