大震災から11年半の大槌 岩手県大槌町   

・時期 対象に応じて。冬季は路面凍結注意
・交通 三陸鉄道利用の場合、大槌城、御社地公園は大槌駅、浪板海岸へ浪板海岸駅から
・電話  大槌町観光交流協会(0193−42−5121)
    =2022年8月24日取材

城山公園から見る大槌町の町方地区
 
 
 釜石市の北隣の岩手県大槌町を4年ぶりに訪ねた。町内で死亡・不明者1226人が出た東日本大震災から11年半。止まらぬ人口流出、まだまだ残る未利用地…と課題も多いが、昨年末に再建なった天満宮、砂浜再生で今夏海開きした浪坂海岸など新しい町づくりへの着実な足取りが感じられた。

明るさ灯し続け まちの再生に一歩一歩

 中心市街地の町方に入り、町役場のわきから城山公園まで上がった。中ほどにあるガス灯は「3.11 希望の灯」。阪神大震災の犠牲者追悼のため神戸・三宮の東遊園地で灯されてきた灯を分灯した。これまで2回訪ねた時は、仮設住宅の自治会長だった赤碕幾哉さんに町内を案内してもらい、被害の実態や復興の動きを伺ったが、まず訪れたのはこの場所。ここからが町方の様子がよくわかるからだ。

 2016年7月は更地が広がっている状態、2018年3月には土盛が終わって住宅や図書館の建設が始まっていたが、今回はかなり建ち進んできた。麓の江岸寺は津波に火災が加わり本堂や山門から史料までが失われ、多くの人が犠牲となった。2016年は焼けただれた鐘が置いてあったが、2019年に再建なって今回、立派な本堂の姿が見られた。

 ◇江戸に新巻鮭の販路開いた悲劇の城主 

  今回は大槌の町の基盤となった大槌城本丸を見ようと、城山公園から先に進んだ。車道わきの登り口から坂を上がると尾根に上がり、左手に進めば標高140mの本丸跡だ。「大槌城址」という石碑と「主郭(本丸)跡」という石柱が立っているだけで、はっきりわかる遺構はないが、大槌湾をはじめ眺望が得られる立派な山城だ。

 室町中期の15世紀初めに大槌次郎が築城、釜石から山田町まで3000石の領地を持ち、かなりの大勢力だったようだ。しかし、江戸時代になって盛岡藩主となった南部氏によって城主大槌孫三郎が自刃させられることに。200年余続いた大槌城は南部藩が破却して、平地に陣屋を置いたという。

 大槌孫三郎は、秋に川に戻って来る南部鼻曲がり鮭を塩漬けにし、寒風干しにして船で江戸に運んだという。これが大槌町特産の新巻鮭のはじまりとされ、没後400年の2017年には「新巻鮭の祖」を称える記念事業が行われた。悲劇の城主の無念も少しは晴らされたかもしれない。

 廓や石垣はなくても、東西700mに及ぶ城域内には散歩道や広場が多い。町民にとっては、そんな時にも拠り所となる身近な城なのだろう。広場のベンチに座っていた年配の男性二人に道を尋ねると、「おちゃっこ」に混ぜてもらい、町や山のことをいろいろ教えてもらった。

 ◇進め!ひょうたん島の町

 城山を下り、町方に出た。三陸鉄道大槌駅が2019年に新装オープン。駅舎の屋根はひょうたん型、そして駅前広場には「ひょうたん島初代大統領 ドン・ガバチョ」の像=写真=が立っている。地元では「大槌湾に浮かぶ蓬莱島がひょうたん島」とされているので、住民アンケートでも「駅のイメージはひょうたん島で」という声が圧倒的だったそうだ。他の地域でも「ここがひょうたん島」といっているところがあるようだが、大槌町には井上ひさしの小説「吉里吉里人」のもとになる吉里吉里地区があるので、大槌町に軍配を上げたい。

 駅の正面には宮沢賢治の詩碑が建ち、駅前には飲食店街もできた。ただ、乗降客はまだ限られているようだ。かつて住宅が建っていた駅南側は、建設制限地域となったため利用が進まず、空き地が広がっている。

 町職員40人が津波の犠牲になった旧町役場は、2019年に解体。「震災を伝える場を残して」いう意見もあったものの「毎日毎日見るのは、あの日のことを思い出してつらい」という声が強かった。役場跡地=写真=は、お地蔵さんが残され、昨年末には説明板が設置された。しかし、どういう形の慰霊と記憶の場とするかはまだ決まっていない。

 ◇文化集う場に天満宮再建

 残念ながら赤碕幾哉さんは昨年6月に亡くなられたが、妻の幸江さんがいろいろ教えてくださり、近くの「御社地(おしゃち)公園」を案内していただいた。図書館、震災伝承施設などが入る文化交流センター「おしゃっち」が2018年6月にオープン、南側には湧水をたたえた池もあり、快適な空間だ。南西の一画には三陸御社地天満宮=写真=が昨年再建され、大宰府天満宮から贈られた梅が植えられてた。

  この御社地は江戸中期の僧・菊池祖晴が「東梅社」を設立、町民に学問を教えたり、歌会を開いて大槌の文化の中心地となった。菊池は菅原道真を崇敬し、大宰府天満宮から分祀した天満宮を建てた。

 津波で天満宮も壊滅し、赤碕幾哉さんをはじめ地元の住民が再建を要望、奉賛会で寄付を集めた。公有地での宗教施設の扱いから時間がかかったが、住民が建物を寄付して管理することで町と合意。昨年11月、賑やかに落成式が行なわれた。

 赤碕さんは完成を見届けることができなかったが、天満宮も戻って「御社地公園」は江戸時代からの文化の伝統を引き継いだゾーンとなった。赤碕さんが大槌町復興の目玉として、整備に要望を重ねていたことがよくわかった。

◇震災後の新しいつながり大切に

  公園のすぐ南側にしゃれた建物ができていた。今年2月に新規開業した外科クリニック。大槌町では、唯一の民間外科病院が津波で流され廃業。地元出身で盛岡の病院に務めていた医師が準備を重ね、地元の棟梁に建築を依頼した。
 
 「近い人が亡くなったり、町を出て行って寂しくなることはあります。でも震災の時に来てもらって、ずっと行き来している人もいます。東京の区役所から応援に来た方が、この4月には大槌の町民になって町役場で働き出しました」と幸江さん。赤碕さん夫妻も震災後に訪れたボランティアと交流を続け、福岡の女子大学生からは「岩手のおとうさん、おかあさん」として結婚式に呼ばれた。

  ◇復興工事関係者減っても民宿踏ん張る

 夕方、町の北端の浪板海岸に向かった。大震災の津波と地盤沈下で失われた砂浜が復元され、今夏12年ぶりに海開き。盆過ぎで遊泳客はいなかったが、多くのサーファ―が集まっていた。翌朝は鮮やかな日の出を拝めた。

 海岸の高台の民宿は2016年夏にも宿泊。この時の豊かな海の幸の記憶から再訪したところ、メニューは一層充実、京都での修業を終えた青年が最近地元で開業した店の和菓子もついた。

 前回は長期滞在する震災復興工事の担当者で満員だったが、今は工事関係者は管理や点検でたまに訪れるくらいとか。「観光や帰省の人もコロナの影響で伸びませんが、土地代はいらないし、家族の協力で持っています。町内にサッカー場などスポーツ施設が整備されてきたので、学生さんらが合宿に使ってくれれば…」と女将さん。元車の営業マンのだんなさんも、手製のコック帽をかぶって接客や配膳をこなしていた。  (文・写真  小泉 清)

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