ヤマツツジの宝篋山から小田城跡 茨城県つくば市      
宝篋山から筑波山を望む
・時期 春の花々と新緑、秋の紅葉とも魅力


・交通
常磐自動車道土浦北ICからR125
TXつくば駅から小田シャトルバスで小田東部下車
・電話  宝篋山小田休憩所(029−867−1368)
小田城跡歴史ひろば案内所(029−867−4070)
    =2022年5月5日取材

宝篋山山頂から望む筑波山
 
 
 宝篋山極楽寺コース 「戦国最弱の武将」「常陸の不死鳥」の異名で隠れた人気を持つ小田氏治(うじはる)が、奪還に命をかけた小田城(茨城県つくば市)。この城を麓に抱く宝篋山(ほうきょうさん、461m)へ「こどもの日」登山に出かけた。

 小滝と花の山道進めば北関東見渡す頂

 宝篋山のヤマツツジ 長男一家の車に乗せてもらいつくば市街地から田植えが終わったばかりの農村地帯に入ると、北に筑波山、そしてその東側の手前に電波塔の立つ宝篋山が見えてくる。麓の小田休憩所で身支度を整え出発した。

 朝から初夏の陽射しだが、農道からすぐ沢沿いの山道に入り、小滝が続くので、暑さもしのげる=写真右上。長男ちの小3・小1姉妹もしっかり登っていく。谷を離れても自然林が続き、新緑の中にヤマツツジの花が浮かぶ=写真左上。コブシやヤブツバキ、ヤマザクラの樹林も見られ、春は花が絶えないようだ。月に1回は登るリピーターが多いのもうなずける。
登っていくと、「宝篋城 空堀跡」「土塁」と書かれた説明板。もとは小田城の出城として築かれた山城のようだが、小田城を攻める時に使われたと後で聞いた。

 休み休みながら、昼前には鎌倉時代の宝篋印塔の立つ山頂に着いた。塔の横には、この時代に山麓の極楽寺で律宗を広めた忍性の像が建てられている。奈良や鎌倉で苦しむ民衆の救済に力を尽くした僧だけに、ハンセン病の少年を背負った姿だ。頂に立つと、北側真正面に筑波山(877m)がど〜んと迫ってくる。この日は霞んで富士山は見られなかったが、南東には霞ヶ浦、水を張った田や畑の眺望=写真=が広がり、農業王国・茨城を実感する。小田城跡歴史広場

 戻りは、小田城コースの尾根道を駆ける小学生に遅れに遅れて下りる。この道も自然林にはさまれた快適な道だ。途中の展望所から見る関東平野の景観も心が広々とする。愛宕神社、八幡神社と続いて小田の集落に下り立つ。分譲住宅が立ち始めているが、火の見やぐらも残る情緒豊かな集落だ。

  ◇鎌倉〜戦国 名門の存続かけて攻防
 小田城跡歴史広場 家並みを抜け、小田城跡歴史ひろばから宝筐山を仰ぐ=写真左下=。鎌倉時代から戦国時代まで続く平城跡として国史跡に指定。2009年からの発掘調査に基づいて掘や土塁を復元して2016年に整備、400ヘクタールもの芝地が広がり、思ったより大きい規模だ。

 源頼朝の有力御家人で初代の常陸国守護に任じられた八田知家(ともいえ)以来の名家の小田氏。15代の氏治は上杉から北条に乗り換えるなど、北関東支配を狙う大勢力のはざまで名門・小田氏の生き残りを目指した。芝地をゆっくり歩き回りながら、小田城を何度も奪われては奪い返したものの、最後は秀吉をバックにした佐竹氏に屈し、所領を失った氏治を偲んだ。

 小田城跡案内所 手前の小田城跡歴史ひろば案内所=写真右=では、この小田氏と小田城の歩みを時代ごとに紹介。南北朝時代には、後醍醐天皇の重臣・北畠親房が東国を押さえようとして伊勢から船出したものの荒天で常陸に漂着、小田城に迎えられている。親房はこの城で南朝が正統と説き起こした「神皇正統記」を著述、1935年(昭和10年)に史跡指定されたのはこの史実があったからかもしれない。ただ北朝方の高師冬が宝篋城から小田城を攻撃、親房は脱出した。結局小田氏は北朝方に転じて戦うことになり、親房の名分論はこの地の現実に通じなかったようだ。

  ◇城跡整備、小田氏の歩みたどる館も 

 案内所でわかりやすくガイドしてもらったのは、地元の河村兵庫さん(81)。土浦市の高校で長く英語を教えてきた河村さんは、退職後、笹がはびこって道が埋もれていた宝篋山に仲間と通って草刈りや枝払い、登山道6コースの復元・整備に汗を流した。山仕事は若手のボランティアに引継いで「常陸小田城 親衛隊の会」を結成、小田城をはじめ地元の魅力の紹介を続けている。「大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で八田知家が間もなく登場しますよ。中世からの城でこれだけの遺構が残っているのは奇跡。宝篋山から下山してきた人にもっと寄ってほしいし、研究学園都市で研究や勉強をしている外国の方にもどんどん来てもらえれば…」とアピールしていた。

 起死回生の戦いに敗れた小田氏治は、結城家に仕えて転封先の越前で死去。悲願は実らなかったが、負け戦を続けても家臣や領民の心はよくつかんで信頼されていたという。小田城跡が整備され、小田家の歩みが伝えられる場ができたことで、、氏治の帰還の望みは400年余を経てかなったのかもしれない。    (文・写真  小泉 清)

   
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