佐保川堤の桜  奈良市      

・場所 近鉄新大宮駅から西へ5分
花期  総じて3月下旬〜4月上旬
・電話  奈良市「観光協会(0742・27・2223)
    =2022年4月6日取材

樹齢170年を超す川路桜
 
   
 この春は身近なところでリハビリを兼ねた花見と、4月6日、奈良市の佐保川沿いの桜並木を歩いてきた。ちょうど散り初め、心地よい風に乗って花吹雪が舞っていた。

 奈良奉行・川路聖の思い今に生きる

 近鉄新大宮駅から線路沿いに西に戻るとすぐ佐保川。ここから東に桜並木が続いている。観光スポットから少し離れた住宅地の中で、観光客より近所の花見客が多いようだ。すぐに川面のすぐ上を通る小道に下る=写真。花越しに春日山、足元では流れていく花筏がよく見られる。

JR奈良線=写真左=を越えると、数本の老木に続き、対岸にまで枝が張った古木がある。「川路桜 170年の長寿桜」との地元保存会の説明板には、「幕末に奈良奉行を務めた川路聖謨が佐保川などに数千本の桜を植樹した」と書いてある=写真下。

 川路聖謨(かわじ・としあきら)といえば後に勘定奉行となり、南下をもくろむロシアとの交渉を担い、国境を定めた日露和親条約を実現させた人物。毅然とした姿勢と人道的な対応でロシア使節の尊敬を得たと記録されている。版図拡大に血道を挙げたツァーリに先祖帰りしたようにウクライナ侵略を止めないプーチンのロシアの暴虐非道の報道を見ていると、聖謨の存在が改めて大きく見えてくる。奈良奉行は左遷人事という見方もあるが、どのポストでも全力を尽くしたという聖謨の事績が花見で確かめられるのは嬉しい。

  ◇開業9年で廃線に 大佛鐡道の記憶留める

  ほどなく大佛鐡道記念公園。動輪モニュメントと枝垂れ桜が迎えてくれる=写真右中。明治31年奈良―加茂駅間9.9キロを結んだ関西鉄道の路線の愛称で、ここに大仏駅があったとか。東大寺大仏殿は2キロちょっと東なのだが、歩きなれていた当時の人にはどうということでなく、一条通を捕って参拝する乗客で賑わったという。別ルートで奈良―加茂を結ぶ官営鉄道ができたことでわずか9年で廃業した悲劇の鉄道。それでも、こうした公園ができ、大仏鉄道研究会が遺構めぐりハイキングなどを行っているのは幸せだ。

 出発点からここまで2キロ半くらいのコースだが、ソメイヨシノだけでなく山桜、里桜、枝垂れ桜がそろう。その中で先人を偲べて心が和んだ。

  ◇「植え続ければ楽しみずっと」後世に呼びかけ

大佛鉄道記念公園から一条通〜奈良女子大(奈良奉行所跡)〜興福寺〜猿沢池へ。池のほとりに川路聖謨が記した「植桜楓之碑(しょくおうふうのひ)」があった=写真左。170年の歳月で碑文は摩滅してほとんど読めなくなっているが、平成になって隣に碑文と解説を記した説明文が建てられた。興福寺の火災などで荒れていた奈良を桜や楓の名所として復活させようと、町民に協力を呼びかけ。苗木千本を興福寺、東大寺を中心に南は高円、西は佐保川まで植えた経緯を記している。

 「唯に都人の其の楽しみを得るのみならず、而して四方の來遊者もまた其の楽しみを享く」と書かれている。さらに「桜や楓は枯れる心配もあり、後世の人がこれを補って植え続ければ、今日の花見の楽しみは、百代を経ても変わらないだろう」と、世代を継いで緑を守り育てることの大切さを強調しているところが印象深い。

 佐保川堤では、この呼びかけにこたえて地元住民らが桜の植樹、手入れ、清掃活動を続けている。奈良公園は明治維新の廃仏毀釈で衰えた興福寺の境内を、明治20年頃から町民の要望で整備したもので、聖謨の植えた桜が直接残っているわけではない。それでも、その前の聖謨の取り組みが奈良公園の基礎となったことは確かだろう。

 幕臣・川路聖謨は明治元年の江戸城総攻撃の予定日にピストル自殺する。江戸幕府に殉じたような聖謨だが、その足跡は令和の時代にも続いている。   
(文・写真 小泉 清)  

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