鹿島城跡から田澤記念館 佐賀県鹿島市      

・時期 時期は問わない。桜の開花は3月下旬〜4月上旬

・交通
JR長崎線肥前鹿島駅から徒歩20分。駅前の観光案内所、祐徳バスセンター前のレンタサイクル利用が便利
・電話  2021年度中の問い合わせ先は、
鹿島市役所生涯学習課(0954-63-2125
    =2021年9月29日取材

鹿島城跡に続く武家屋敷通に面した田澤記念館
 
 
  JR肥前鹿島駅(佐賀県鹿島市)から市街地を南西に進むと、ほどなく朱塗りの鹿島城大手門が見える。門をくぐると石畳の道の両側に桜の並木が続き、「花のトンネル」と書かれている。桜が開花する季節にはどんなに華やぐことかと想像するが、ふだんの時期でも気持ちよく歩ける場所だ。道沿いにある鹿島高大手門学舎(旧鹿島実業高)の生徒が始業前に道の清掃をしていた。

 坂道を上がると広い鹿島城跡旭ケ岡公園、正面に赤門=写真=を見て公園を抜ける。武家屋敷の跡を留める旧家が続く坂を上がれば、左手にめざす「田澤記念館」が見えた。ここにあった旧鹿島藩士の家で生まれたのが田澤義鋪(たざわ・よしはる、1885-1944)だ。

日本の苦難見通した「青年の父」の精神 今に

 田澤義鋪の名を知る人は限られるだろうが、「青年の父」「青年団の育ての親」と言われてきた人物。「次郎物語」の作者、下村湖人は五高時代の一期後輩。湖人が台北高校長を退任した時、田澤のもとで勤労青年の指導に当たると決意し、大日本連合青年団の指導主任や講習所長を務めた。「自由主義的」との批判を浴びて辞任してからも、田澤の壮年団活動を支えてきた。終戦の前年に田澤が急逝した後も田澤への尊敬の念は変わらず、戦後病に苦しむ中で田澤の生きざまを1954年に書き上げた「この人を見よ」が湖人最後の作品となった。

   ◇ 下村湖人が傾倒、「次郎物語」田沼先生に投影

 「次郎物語」といえば、配属将校と衝突して中学を退学となる次郎が朝倉先生を追って上京し、「友愛塾」の助手として活動する姿を描く第5部。塾の理事長・田沼先生は田澤そのもので、2・26事件が起きた時、その後に閉塾に至る時の落ち着いた対応など、第5部で最も印象的な人物となっている。

  私が田澤を知ったのも「次郎物語第5部」と「この人を見よ」を通してだ。特に1944年2月に香川・善通寺で行われた地方指導者講習協議会での講演。田澤は「…航空機は空をおおて飛来し、爆弾の雨をふらすでありましょう。敗戦はもはや絶対に避けられないことであります。この苦難を通らなければ平和は来ないし、日本も救われません。この苦難をどうしてきりぬけ、その後の日本をどうして再び守り育てて行かれるか、今はその覚悟をすることが大切」と話して倒れた。ここまで日本の行く先を見通し、公の場で発言した人がいたということに驚いた。

  ◇地元企業の青年が共に学び教えるユースカレッジ

  生まれ育った地で、田澤の精神がどう受け止められ、伝えられているかを知りたいと思った。田澤記念館は運営主体の見直しのため4月から休館中だが、鹿島市教委を通じて理事の松本真さんに来ていただき、正装=写真、直筆の書=写真、生家の模型、写真などを集めた展示室も見せてもらった。正装のフロックコートとシルクハットは三度にわたる昭和天皇へのご進講や洋行の際着用したもの。身長は1・7m足らずだが、堂々とした体格で、相撲、ボート、テニスと運動能力抜群だった田澤の姿を彷彿させる。

 青年団活動については、田澤の生地でも厳しい現況だ。鹿島市周辺の青年団は、ローソクづくりなど子どもの育成活動を続けているがメンバーは10人どまり。従来の青年団活動の基盤だった むらやまちのあり方が変わってきたので、難しい環境なのだろう。

 そうした中でも、記念館が続けてきた活動が「ユースカレッジ」。鹿島市内に立地する事業所の青年20人が集まり、田澤の考えを基にし、異なる業種の間で交流しながら、団体活動で必要な知識や技能を習得するという趣旨だ。月1回だが、朝から夕方まで講義や実地視察などびっしり。田澤の生き方や考え方はもちろん、鹿島の自然や歴史、まちづくりについて生きた学習をする。終盤には受講生が講師となって、職場を紹介する視察研修に1日当てている。単に講義を受けるというより、自ら考えて実践する田澤の考え方が生かされていて、よそでも参考になる活動と思った。
 今年度は4〜10月はコロナの影響で開けなかったが、「休館中でも欠かせない活動」として11月から来年3月までの短縮版ながら実施するそうだ。

 世代の移り変わりとともに、地元でも田澤が知られなくなっていることから力を入れているのが、出前授業。昨年も松本さんらが鹿島市、嬉野市、太良町の17小学校を回った。安永秀樹前館長が執筆した本「郷土の光 田澤義鋪」=写真=が小学生に配られていて、生涯と仕事をわかりやすく描いている。「児童会長の選挙などで選挙は小学生でもなじみ深いので、明るい選挙運動や、少年時代の体験を中心に話しています」と、元小学校長の松本さん。本格的な漫画も間もなく完成、こちらは高校生まで配布するそうだ。
 
 ◇「先ず郷土を錦に」「一事慣行」の言葉朽ちず

 25歳で静岡県の安倍郡長になった時に始めた青年への勉強会からの青年運動が田澤の軸だが、渋沢栄一の頼みで入った労使協調への尽力、関東大震災後の東京市助役としての復興への取り組み、2・26事件での収拾への迅速な対応など行動力と人間の幅の広さに驚く。それぞれの分野での業績を限界面も含めて、もっと取り上げていいと思う。

 田澤自身の著書は読まれなくても、彼が残した「一事貫行」「錦を来て郷土に帰ることを願う前に 先ず郷土を錦とすることを願え」といったことばは、朽ちることがない。

  こう思いながら、田澤記念館を後にし、武家屋敷通り=写真=から城跡公園に戻った。江藤新平の起こした佐賀の変で鹿島城の建物は焼失したが、赤門と大手門は残った。赤門は鹿島高赤門学舎の正門となっている。前身の鹿島中は田澤が学び、後に下村湖人が校長を務め、校歌を作詞した。

 赤門前は「野外博物館」として、多くの説明板が鹿島藩時代の歴史を教えてくれる。鹿島藩は佐賀藩の支藩で石高わずか2万石だが、最後の藩主・鍋島直彬は名君として鹿島中の前身の弘文館を設置、また大隈重信ら明治維新で活躍した佐賀の若手人材を支援したという。田澤も直彬の長男の学友に選ばれ薫陶を受けた。

 鹿島城跡を巡りながら田澤記念館を訪ねたら、小さな城下町が生んだ大きな人物に出逢うことができるだろう。  (文・写真  小泉 清)


   
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 【参考図書】 下村湖人「下村湖人全集6 この人を見よ」池田書店 1965
          下村湖人「次郎物語5」岩波書店 2020