悲劇の英雄・護良親王偲ぶ嵯峨渓      
 
 「奥松島オルレ」翌朝は幸運にも風が収まり、波も高くないということで「嵯峨渓クルーズ」=写真=が出港できるとのこと。外海に出て島の最南端に突き出た半島沿いに展開する荒々しい地形を堪能した。荒波が創り出した20~40mの海蝕崖は、内海の穏やかな松島湾とまた違った魅力だ。

 宮戸島の荒々しい海の景観を楽しむ嵯峨渓クルーズ なぜ「嵯峨渓」という雅やかな名がついたのかと思っていると、南北朝の戦いのヒーロー・護良親王(1308~1335)が京の嵯峨を偲んで名付けたとのことだ。大高森観光ホテルの櫻井邦夫さん(85)に「護良親王が大高森に登ったという言い伝えもありますよ」と教えてもらった。

 護良親王は、父・後醍醐天皇が隠岐に流されている間にも兵を集め、鎌倉幕府打倒の先鞭をつけた武勇に優れた親王だが、父に警戒されて足利方に引き渡され、鎌倉の土牢で殺されたとされる悲劇の人物。「なぜ、この親王が宮戸島に」という疑問が帰阪後も消えず。櫻井さんに尋ねると、昨年島の人々がまとめた「宮戸島読本」=写真=など地元の資料をたっぷり送っていただいた。

 ◇「足利方の手を逃れ、2か月島に」の伝承

 宮戸島のすべてを盛った「宮戸島読本」 「宮戸島読本」などによると、足利の手を逃れた親王が臣下8人と宮戸に着き、大浜に2か月滞在したという伝承があるそうだ。島の南東部の大浜には「お筆室(ふでむろ)」と呼ばれるイブキビャクシンの大木がある。樹齢700年と言われ、護良親王が滞在したおり、筆に使っていたムロ=イブキビャクシンの枝を土に挿すと根付いたとされる。

 さらに、より鮮明な伝承が石巻市の海辺の街・湊に残る。「親王殺害の命を受けた淵辺義博は親王に恩義があったため、密かに領地の牡鹿湊にかくまった。しかし、親王は土牢生活で弱ってほどなく病死した」という。実際、その塚跡に建てられたという一皇子神社が祭神として親王を祀っている。護良親王の住まいがあったという場所は石巻市湊に「御所入(ごしょいり)」という地名として残っている。臣下の子孫といわれる家が続いていたが、大震災で一帯は大きな被害を受けたという。

 ◇配下に奥羽の武士、「生かしてあげたい」心情

  護良親王は倒幕時代から紀伊、和泉、河内といった地域を地盤に活動しており、一見陸奥方面へ逃れるのは唐突に感じられる。しかし、護良親王と姻戚関係にあった北畠親房の子息・顕家が陸奥国司に任命され、陸奥将軍府を設置していた。親王は親房との関係を利用して奥羽の武士を配下に加えて戦力にしていたというので、土地勘があったかもしれない。

  史実としては鎌倉で殺されたのが自然かもしれないが、「建武新政の立役者なのに父・後醍醐天皇にうとまれて非業の死を遂げた」親王への同情は広がっていただろうし、「なんとか生き延びさせてあげたい」という心情もあったことだろう。その際の逃亡先に陸奥が選ばれたのは不思議ではない。それなら、海上交通の要衝だった宮戸島に寄る設定も自然だろう。

 そうした素地に、多くの海難や災害が起きるたびに島の内外の区別なく助けてきた人々の心情が加わって、親王が嵯峨渓の絶景を楽しむ話になったのかもしれない。「大高森についても、きっと登っただろうという願いを込めた言い伝えなんでしょう」と櫻井さんは話していた。(ちなみに大高森には、昭和天皇が即位前の1918年、今上天皇も皇太子だった1975年に登頂されている)。

 関西からの訪問者にとっては、護良親王伝承を聞いたことで、宮戸島がより近く感じられるようになった。=2021.7.30取材
  
(文・写真  小泉 清)

 【参考図書】 宮戸コミュニティ推進協議会「宮戸島読本」2020
         渡辺照悟「豊かな自然と縄文の里 宮戸」
         鳴瀬町誌編纂委 「鳴瀬町誌」1985 鳴瀬町教委
         亀田俊和「征夷大将軍・護良親王」2017 戎光祥出版


本文 夏の奥松島オルレ
  2021.7.29取材

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