豊中空襲で別れた友、尽くせぬ語りいつまでも                                 
 昭和20年6月7日の豊中空襲で、1トン爆弾3発が投下され16人が亡くなった日本生命豊中社宅(大阪府豊中市玉井町)。ここで育ち、かけがえのない友達や隣人を失った杉田宏さん(85)が戦後75年の2020年9月20日、中央公民館で開かれた「平和のための豊中戦争展」で証言、「この悲劇を今一度肝に銘じて二度と戦争を起こさないことを誓い合おう」と呼びかけた。杉田さんとは爆弾でできた大穴が発掘された新免遺跡の現地説明会=写真右=でもお会いしていて、改めて訪問し、戦後を含めて体験と思いをうかがった。

 ◇国民学校4年で爆死、隣家の同級生の泥拭う
 

 あの日、杉田さんは10歳、明徳国民学校(克明小学校)4年生だった。空襲警報が鳴り響き、急遽帰宅した。だぶだぶの鉄兜をかぶり離れ座敷の床の下に掘った防空壕に入ろうとした時、隣の松見さんが「新しい防空壕がきのうできたから、うちへいらっしゃい。早く入って」と叫んだので、母ときょうだい4人(弟一人、妹二人)」で3畳ほどの壕に大急ぎで移動した。

 「両手の親指で耳を押さえて」「目をつぶって静かに」と言われた通りにしていると、「ドスーン」という大きな衝撃。体が宙に浮き、頭が天井に打ちつけられた。耳と目を押さえたまましゃがみこみ、しばらく息をするのも忘れた。何分かたって起き上がろうとすると、壕の天井が低く押しつぶされていた。

 壕の上には土やがれきが重なり合った状態。「入口の蓋があかないぞ」と組長さんが壕の中にあった鍬で蓋をたたいた。何時間かして「ここは生きてるぞ」という声が聞こえ、警防団が蓋を開けて救出してくれた。引っ張り上げられて振り返ると、わが家は土砂の上に斜めに傾き、離れ座敷の上に隣家の棟木が突き刺さっていた。「松見さんの声かけがなければ、とても助かっていなかったでしょう」。

 雨戸をはがした戸板の上に、隣の家の同級生、新田君の一家5人が泥まれで並べられていた。新田君に近寄り、顔に付いた泥をふき取った。外傷はないものの亡くなったことはわかっていたが、「息がしにくいだろう」と、鼻の穴に詰まった土を小枝でかき出した。あまりにも衝撃が大きかったためか涙も出なかったが、大人が走り回る中、新田君の傍を離れずにいた。

 日生の社員だった父は、豊中空襲の情報が入った会社の指示で淀屋橋の本社から歩いて帰宅した。社宅の惨劇は把握しておらず、それほどの被害はないのでは思っていたら、豊中駅を過ぎたあたりで「日生の社宅が大変や」という話が入り、あわてて駆けつけた。一緒に帰ってきた同僚の大館さんは、そこで妻子5人の死亡を知った。

 6月15日には焼夷弾を受け女子寮も全焼。伊丹空港に向かうグラマンからの機銃掃射が続いた。操縦席から乱射する米兵の顔がはっきり見えたが、逃げずに顔をにらみつけていた。はじめは怖かったが、慣れてくると「撃っても当たらない」という気持ちになっていた。

 しばらくして父の生まれた静岡県磐田町に疎開し、終戦をその地で迎えた。祖父の家は農家だったので秋の稲刈りを手伝い、年末に豊中に戻り焼け残った社宅に住んだ。戦争中は配給制で乏しいながら得られた食糧は確保できず、近辺を畑にしてイモを植え、母は着物を持って闇米を求めに丹波篠山に出かけた。

◇「復興には鉄」と勉学、経済成長に邁進

 
 杉田さんは克明小を卒業、三中を経て父の転勤で名古屋の高校に入学したが、父の大阪復帰で再び豊中に戻り、編入試験を受けて豊中高校に入った。小学校の教科書は墨塗り、中学校の校舎は大池小の横にあった旧看護学校の教室で教育環境はなかなか整わなかったが、豊中高校に転入したころから勉強に身が入るようになった

 「日本を復興させるには、建築か製鉄の仕事をするしかない」と目標が定まったからだ。近所の住友関係の人から「住友金属が和歌山製鉄所を高炉一貫製鉄所にする計画をたてており、製鉄所だけでなく周辺のまちづくりからすごい規模の建設工事をする」という話を聞いたことが刺激になった。「空襲による街の破壊を目の当たりにしたことが、新しいものをつくり出すことに魅力を感じる要因になったかもしれません」。

 京大工学部に進んだ杉田さんは冶金工学を専攻した。就職先には業界をリードする八幡製鉄も見に行ったが、清新さにひかれて1959年に住金に入社した。
 最初に配属されたのは尼崎の鋼管製造所の現場。続いて和歌山製鉄所に移り、計測管理機の導入、公害対策などさまざまな分野で生産体制づくりの先兵を任された。「新しい方法を一から考えるやりがいのある時代でした」。1989年に本社の鉄鋼企画部長から小倉製鉄所長に。住金が前身の小倉製鋼を買収した経緯があり、現場では整理対象になるのではという警戒感があったが、自動車大手の九州シフトをにらみ、タイヤ用線材、ベアリングなど自動車向け製品に力点を置いた。「新日鉄八幡の存在感が圧倒的だったので、製鉄所にゴルフ練習場など地元の人が使う施設を設けたり、特色をアピールしました」。和歌山製鉄所長(専務)では、エネルギー産業に不可欠で海外需要が伸びてきたシームレスパイプの設備を更新し、稼ぎ頭にした。

毎夏に慰霊碑訪れ合掌、体験を心の支えに 

 在社時の杉田さんは、空襲の体験を話すことはほとんどなかった。戦後30年の1975年に新田君らの名を刻んだ日生社宅犠牲者の慰霊碑が日生豊中寮前に建立された時は40歳の働き盛り。空襲時の日生社宅居住者の「偲ぶ会」には母の賀代子さんが出席した。
 しかし、心の内には空襲の体験は強く残っていた。「鉄鋼マンとしては生産調整で厳しい対応が迫られたり荒波の時も多かったが、『戦中・戦後の苦しい時を経験してきたんだから、何とか乗り切れる』という心の支えがあった」。そして一年に一度、あの6月7日前後に慰霊碑の前を訪れて合掌し、友に語りかけた。小倉に赴任していた時も役員会で来阪する時に合わせて訪ねた。

 杉田さんにはビジネスの世界を離れて、戦中・戦後の少年時代を共有できる仲間がいた。明徳国民学校=克明小学校の同期生の男女20人ででつくった「豊中・西の会」。 豊中駅西口周辺に住んでいることにちなむ名で、空襲を体験しており、毎年1、2回集まりを続けてきた。参加者は減っても、周りの景色が変わっても、かつての少年少女にとっては、あの時の記憶が消えることはない。

◇惨禍忘れず、若い世代が平和築いて
 

 慰霊碑が建てられ31年後の2006年、豊中寮が使用停止で管理人が不在となることから慰霊碑の撤去が決まったことは衝撃だった。同年8月、すでに金網に囲われた慰霊碑の前に立った杉田さんは、「戦後 満60年に想う」=写真右=と題した詩を作った。

 その年の9月には「魂を比叡山の慰霊宝塔に合祀した」とされ、慰霊碑は11月に撤去された。「縁ある人に知らせることもなく、犠牲者を現地でしのぶ慰霊碑をなくしていいのか」という声も出たが、届かなかった。
 
 それからさらに14年。日生社宅や寮は売却され、開発前の新免遺跡発掘調査で空襲の大穴が見つかった社宅跡には新しい住宅が並ぶ。空襲の史実を留めるものは何も残っておらず、周囲に語り継ぐ人もいない。「戦争を直接知る世代が少なくなっていく中で、惨禍が忘れ去られてしまうのでは…」という危機感もある。

 それでも、杉田さんはこれからの時代を担う若い世代へ期待を抱く。10歳の時の空襲で10人の友達をはじめ16人の隣人を失い、戦後の復興をめざして学び、高度経済成長を支える企業戦士として働いた杉田さん。「今は当時と違って、一つの目標に沿ってみんな一緒にやれという時代ではありません。一人一人が、自分が何をしたいかをしっかり見極めていくことが大切。その中から平和を築いていこうという人が出てくればいいですね」と語った。
    
 (文・写真 小泉 清)=2020.10.17取材
  

 新免遺跡、豊中空襲の惨禍示す巨大な穴も=2013.12.14取材

 空襲の記憶甦る絵 公園の説明板で後世に=2022.06.07取材



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