震災25年の朝 会下山ラジオ体操会                                 
 阪神・淡路大震災から25年の1月17日朝、始発電車で神戸市兵庫区の会下山公園に向かった。この南東側の麓の松本通は1982〜1984年にかけて住んでいた街。震災当時は大阪に移っていたが、親切にしてもらっていた隣人が気になって訪れると一帯は焼け野原、マンションは黒焦げになっていて愕然とした。「会下山ラジオ体操会」が毎年、公園山頂広場の海員万霊塔前で慰霊の場を設けていると聞いていたので、今年の1.17はここからと決めた。

  人と人との出会いで つながった元気
 

 まだ暗い中、神戸高速大開駅から坂道を上がった。地震が起きた午前5時46分には間に合わなかったが、6時過ぎに塔の前に着くと、集まった人々が順々に焼香している。世話役の男性に「おはようございます」と線香を渡してもらい、合掌した=写真左。続いて6時半からの体操にも参加した=写真下。

 合間にお話した近所の87歳の女性は「地震では私も夫も無事でしたが、すぐ近くの方が亡くなられました。家は半壊し、近くの学校に設けられた避難所に移りましたが、震度4の余震が続き、出入り口が一つしかないので怖くて、『半壊で不安はあっても、同じ死ぬなら家で』という気持ちで自宅に戻りました」。「再建は大変でしたが、2年くらいして『閉じこもっていると体がどんどん弱くなる』と思うようになり、誘われてこの会に入りました。全然知らない人でも毎朝顔を合わすと自然と友だちになり、3日ほど行かない日が続くと『どないしたん』で帰りに声をかけに寄ってくれるんです。バス旅行などの行事も楽しみで、夫とともにこの25年を元気でやってこれました」と振り返っていた。

  ◇新たな参加者加わり 会の歩み休まず

  1958年に結成された「会下山ラジオ体操会」は盆も正月も無休で毎朝実施。震災の日から6日間は途絶えたが、避難所から通うメンバーら4人が再開、次々戻ってきた。そのころからの人がいれば伺いたかったが、25年の歳月の中で亡くなったり、足腰が弱って来れなくなった人が多いとのことだった。一方、震災当時は参加していなかった人が、その後の人生の変化の中で新たに加わって、震災後の会の歩みをつないでいる。この朝世話しておられた男性は「入院して健康づくりの大切さを自覚してから通うようになりました」とのことで、焼香を終えて体操開始を待つ女性は「定年になってようやくゆとりができたので、10年前から兵庫駅前の家から毎日来てます」と話していた。

 現会長の平口正治さん(73)は震災時は東京に単身赴任中。会下山の北側麓の家にいる家族とは電話がなかなかつながらなかった。半壊と聞いて5日後に神戸に駆け戻ったものの電車は西灘までしか運行しておらず、そこからは歩いて家にたどり着いた。平口さんは1年後に神戸に戻り、ラジオ体操会に復帰。三代目の山中敏夫さんの後を引き継ぎ、2006年から会をまとめている。


   ◇四季の自然に眺望…体操だけでない魅力

 震災被害やその後の区画整理で転出した人も多く、一時500人いた会員は減ってはいるが150人を維持している。「冬の日々異なる美しい日の出、春は桜・椿・ツツジと次々咲く花々、緑いっぱいの木々、南側は海や空港まで眺められる素晴らしいところで体操や踊りができ…毎日感謝です」(「会下山ラジオ同窓会60周年記念誌」より)というように格別の場所も魅力のようだ。「『体操だけでなく登り坂も歩くので健康づくりには一番』と30分かけて歩いてくる人もいます。一方、登りがきつくなったと自宅近くのラジオ体操の会に移る人もいますが、ラジオ体操仲間に変わりありません」と平口さん。

 
毎朝の会を見て気付くのは、開始前に会場を準備し、終了後は一人ひとりの参加証に押印し片づけている世話役さんの姿だ。役員25人が毎朝交代で4人づつ“出勤”しているという。みんなで動いて活動を支えるしっかりした体制も、震災を乗り越えてきた力なのだろう。

 2020年の1月17日も体操はいつものように10分ほどで終わったが、この日は温かいうどんの鍋が用意され、参加者は集まって震災25年を語り合っていた。私は「桜の咲くころにまたうかがいます」と辞去、「元気でいてたら毎朝来てるよ」という声を受けて会下山を下りた。
     
     
(文・写真 小泉 清)=2020.1.17取材

   1.17メモリアルウォークでたどる震災25年=2020.1.17取材
 
 


      会下山の桜=2011.4.5取材  

    

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