満蒙開拓団の現地訓練所で教えた少年たち                                 
 2016年夏に和歌山県由良町の「戦争体験と平和への思いを語り継ぐ会」で、終戦直前の由良湾での海防艦爆沈で弟を亡くした兄として話した浜田英雄さん(御坊市名田町野島)。97歳の今も元気で畑仕事をされ、昭和19年から20年にかけて満蒙開拓青少年義勇軍の訓練生たちの教育係を務めた自身の従軍体験について教えていただいた。

 大正11年2月、農家の長男に生まれた浜田さんは昭和17年8月に徴兵検査を受け甲種合格。翌18年2月には大阪・信太山の陸軍中部第27部隊に入隊、馬の世話の仕方をたたきこまれた。3月末には酷寒の地の満州・林口(現・黒竜江省牡丹江市林口県)に配備され、新人兵の訓練に当たった。

  ◇「だまされた、帰りたい」と泣く子を諭す
 

  80人の同期の中で成績の席次7番目だった浜田さんは、19年6月1日、部隊近くにあった満蒙開拓青少年義勇軍の楊木訓練所の教育係として派遣勤務の命令が下った。同期の軍曹上等兵二人と下士官二人とともに赴任した。訓練生は新潟県出身の16歳前後の少年160人で、所長、農業担当者、経理、寮母ら7人が県職員として派遣されていた。

 少年たちは茨木県内原村の訓練所で1年間の訓練を受けており、「まず現地での集団生活に慣れること」が目的だった。しかし、まだ声変わりもしていない子供たちで「校長先生にだまされた。帰りたい」と泣く者が多かった。25歳の寮母の鈴木先生が子供たちをなだめる毎日だった。浜田さんも「軍隊なら命令的にやれるが、子供たちにはそうはいかない」と、「けんかせず、みんな仲良く助け合ってここで生活せなあかん」と諭した。少年たちもようやく落ち着き、お盆には広場にやぐらを組んで盆踊りを楽しんだ。声のきれいな少年がいて、演芸会で「カラスの子」「「夕焼け小焼け」などの童謡、「誰か故郷を思わざる」「人生の並木道」の古賀メロディーを、まだ黄色い声で歌っていた。

 6月は4、5月に続いて種まきで忙しい時期だったが、農耕道具は少なく、草刈り鎌もスキも満足するものがなく手作業が主だった。トラクターは1台あったが、部品がないので動かなかった。家畜は牛が花子と呼ぶ1頭だけ、豚が少数いるだけだった。

 短い夏にはいろいろな野菜が多く、収穫に追われた。スイカ、トウモロコシ、大豆、ヒマワリ、ウリ、大根。特に砂糖大根は甘く、生で食べた。冬に備え、、食糧の貯蔵方法を教わった。冬場にも暖かい日を選んで、4キロほど離れた所へ行って白樺の木を一人一本、自分に適した重さや長さのものを運んだ。

 軍事教練については、「銃剣術も射撃も現物がないので、やりませんでした。乗馬も行軍もありません」と浜田さん。軍服を着るのは、月給12円50銭と消耗品の手袋と靴下を受け取りに部隊に行く時で、訓練所では作業服姿だった。
 

   ◇突然の帰隊命令、訓練生と別れて宮崎へ

 厳しい冬を越えた昭和20年3月1日、浜田さんは「すぐ帰隊せよ」との命令を受けた。任期は1年だったのであと3か月の時期だが、命令には従わなくてはならない。生徒を集めて「あと3か月任期が残っているので、必ず帰って来る」と話したが、別れるのが心残りだった。隊に戻って「訓練生の個性もようやく理解できるようになりました。残り3か月復勤させてください」と上官の佐藤准尉に願い出たものの、「行動を共にせよ」と言われた。「この一言が生死の運命の分かれ道となりました」。

 3月19日、隊を出発、林口陸軍病院前では若い看護婦たちの涙の見送りを受け、有蓋車にすし詰めにされて林口駅を出発した。どこへ向かうのか知らされないままだった。途中、兵站部からにぎり飯を支給され4日ほどかけて釜山へ。そこから貨物船に乗せられて着いたのは博多港だった。部隊は鹿児島から沖縄へ向く予定だったが、船は一隻もなく、宮崎県の小林に向かった。その山中で本土決戦に備えた陣地構築の作業に携わり、終戦の日を迎えた。

 残務処理の後、10月15日に復員が認められた。20日に御坊に到着、そこで弟の輝男さんが戦死した知らせが待っていた。嘆き悲しむ母とともに遺骨を受け取り、仏壇に安置したのが翌21年4月15日だった。帰郷してからも浜田さんの心から離れないことがあった。訓練所で寝食を共にした新潟県の子供たちや先生たちは、その後どうなったのか。新潟県に手紙で問い合わせたところ、農業を教えていた中山正信先生から11月このような内容の返事が来た

   ◇ソ連参戦、訓練生は決死の逃避行  

 「兵隊さんが引き揚げたのは3月1日、野菜の種まきの時期でしたが、帰りたいと泣く者ばかりでした。どうしても慣れない60人は私が新潟へ連れて帰りました。そして、二人の先生が招集され所長も入院しました。寮母の鈴木先生は陸軍病院の歯科医の先生と結婚されましたが、夫は関東軍引揚げの穴埋めのため現地召集され、幼子と留守番でした」。

 「8月になると食料もなくなり、身体の大きい力のある訓練生10人を連れて牡丹江へ行きました。8月9日にソ連参戦。ソ連の飛行機部隊が来襲しすさまじい機銃掃射を浴びせました。林口へ戻る鉄道も破壊され、『日本が負けた』との情報も耳にしました。訓練所に残した生徒も気になりましたが、逃げるより方法がありませんでした。『朝鮮まで行けば命が助かる』と昼はトウモロコシ畑に隠れ、夜に歩き続けました。着のみ着のまま、命だけ持って新潟に帰り着きました」。

 手紙は中山先生の勤務地、新潟県農業会畑江開拓事務所から出されていた。満州からの引揚者は阿賀野川市の山地の畑江で新たな開拓に取り組んでいた。浜田さんは中山先生と会いたい気持ちが募ったものの、当時は食糧難のうえ汽車の切符の入手も難しくて実現できず、3年間文通を行った。便りの中から所長は奉天で死亡、農業担当の先生二人は招集され行方不明になったとわかった。訓練生のうち、気さくでかわいく、浜田さんら部隊員の部屋によく遊びに来ていた少年は無事帰郷していた。中山さんからの便りにはいつも「一度来て話してください」と書かれていたが、昭和60年に新潟新港見学で新潟を訪れた時には40年が過ぎて連絡が取れず、再会はかなわなかった。

 訓練所では先生たちに写真を多く撮ってもらったが、移動時に焼却せざるをえなかった。しかし、浜田さんにとって、酷寒の訓練所で8か月間を共にし、心ならずも別れなければならなかった満蒙開拓青少年義勇軍の子供たちは今も忘れることができない。
                             
                               ◇

 浜田さんが林口で教えた訓練生が、ソ連参戦と日本敗戦の中でどうなったのか私も気になった。その後の調査を含めて新潟県に記録が残っていないかと調べたところ、国立国会図書館に「新潟県満州開拓史」という分厚い本があった。元中学教師の高橋健男さんが資料をあさり、聞き書きを重ねて2010年にまとめた労作。義勇軍の各隊も紹介し、浜田さんが派遣された林口県満鉄楊木訓練所についても記述していた。

 ソ連侵攻後の状況は、中山さんが手紙に書いていた10人のほか、応召組、撫順炭鉱に徴用された者、12日に退避した人などさまざま。何人かは苦難を経て帰国したものの、ソ連軍の攻撃や病気で亡くなった人が多く、後年の帰還者の会の調べでは54人が犠牲になったという。

 新潟県の場合、東北地方や長野県と比べても「満蒙開拓への応募が少ない」と国からの圧力があり、少年への応募の働きかけが強かったことも説明されている。浜田さんが覚えていた「先生にだまされた」という訓練生の不満には、こうした背景があったようだ。

 ただ、同書でも指導役の立場の人の記録はあまり見られなかった。それだけ軍から派遣されて少年と9月間生活を共にした浜田さんの証言は貴重だ。

                                (文・小泉 清)=2019.7.17、11.21取材
 
   防艦犠牲者の兄の思い=2016.6.18取材
    満蒙開拓義勇軍「渡満道路」の桜=2019.4.18取材

                        →トップページへ