木馬、ケーブルで山出し 戦後の林業引っ張る  兵庫県丹波市                            
  節分草まつりやセッコクまつりなど季節季節のイベントが盛んな兵庫県丹波市青垣町の東芦田の集落。そこで村おこしの先導役を進めた芦田晴美さん(85)に以前寒天出稼ぎの思い出を聞いたが、今回は15歳から35歳ごろまで携わってきた山仕事の体験を伺った。木馬(きんま)、架線(ケーブル)と手段は変わりながらも、伐採された木を深い山からふもとの道まで運び出す危険でハードな作業を続けてきた。 

  ◇高小卒後、収入に引かれて山仕事に

  芦田さんは昭和8年3月生まれ、15歳で高等小学校を卒業して山仕事の組に入った。父は日清戦争に海軍軍人として従軍して退役後に郷里で田畑も手に入れていたが、それだけでは充分な暮らしはたてられなかった。兄は太平洋戦争から無事復員したが、冬場の寒天出稼ぎで風邪をこじらせて死亡。芦田さんが家を支えなければならなかった。「働き口として役場や電機工場はあったが、山林労働は危険な分、月給取りと比べものにならない収入が得られた。特別の頭や技能も必要なかった」。

 当時の林業は、製材所が山持ち=山林地主=から「この山で何石分の木を伐り出す」という形で買い取り。製材所は実際の伐り出しを山仕事を行う組に「1石当たりいくら」と請け負わせる。山仕事では、木を伐採する作業と、伐られた木を集め、木馬(きんま)で曳いて、トラックや馬が入る道まで運ぶ「山出し」の作業を明確に分けていた。芦田さんは木馬曳きをしている東芦田の先輩がいたので、組に入って山出しの仕事を始めた。芦田さんは最年少で4、5人の先輩がいて、40過ぎの人が最高齢だった。


   ◇急斜面に木馬道づくり、目いっぱい原木積む 

 山出しの作業は、木馬を下ろす木馬道づくりから始まる。まず資材とする木を伐る。材木になる杉やヒノキでなくコナラなどの雑木を使う。大江山に入った時はウルシの木を使ったので、かぶれてかゆみが大変だったが、薬もないのでがまんするしかなかった。平地や緩い斜面では枕木のように並べればいいが、急傾斜地や谷を渡る箇所では、橋のように杭を建てなければならない。また左右は水平にしなければ、木馬が谷に落ちてしまい命にもかかわる。「どこに木馬道をつけて、どう組み立てるかは長年の経験と勘がいりました」。伐っては組んで、伐っては組んでを重ね、一つの請負仕事で山に入る期間の25〜30%は、この木馬道の敷設にかかった。

 伐採した木を集めて載せる木馬は長さ8尺(約2.4m)、幅は人間の肩幅ほど、厚みは1寸から1寸半(3〜4.5cm)くらい。小さめに見えるが、人の背丈近い高さまで、上が広がる神輿の屋根のような形に積むので、積載量は大きい。それだけに精巧でなければならないので、組の中でも特に器用な人が職人として木馬をつくる。また、できるだけ多く載せられるような積み方をするかが曳き手の力量だった。

 木馬に積み上げた一番上の丸太にワイヤをかける。曳き手は木馬の前部の横に立ち、ワイヤを手で調整しながら下っていく。基本的に木馬は木馬道を勝手に滑り落ちていくので、曳き手はコントロールの巧拙が問われる。

 伐採場所と林道の間の距離によるが、曳き手がめいめいの木馬を曳き、1日に3〜4回往復することもあった。林道の奥に設けた集積場=土場(どば)まで運ぶと、木馬曳きの仕事は完了。そこから先は製材所がトラック(当時は主にオート三輪)か馬力で運んだ。入ったころはトラックと馬が半々で、木馬二台分で下した材木を、馬一頭が運んだ。

  ◇危険伴う仕事、山奥で長期間泊まり込みも

 積み方やワイヤの締め具合によっては、木馬が木馬道を飛び出して曳き手がはじかれて転落したり、下敷きになってひかれる事故もあった。「吹っ飛ばされてけがをした脚が今も痛みます」と芦田さん。仲間うちで負傷者は多かったが、致命的な直撃はすばやく逃れて死亡者は出なかった。新米の時は伐られた木を集めること、木馬道づくりから仕事を始めた。木馬を曳くのも平らなところから始め、急傾斜を曳くのは経験を積んでからだった。

 木馬曳きに入る山は広範囲にわたった。地元の製材所が請け負った青垣周辺の山林の仕事が多かったが、東芦田出身で京都府福知山市で製材所を経営している人からは、大江山や舞鶴の大浦半島の山林からの山出しを請け負った。このあたりは山が深く、一日で人家が近くにあれば、製材所の手配でそこに泊まり込んだが、奥深い現場に入る時は、小屋を建てて泊まった。飯炊きは主に新米の仕事。風呂はないので谷川で体を洗った。一山での仕事が半年にも及ぶこともあった。

 危険を伴う不便な仕事だけに、月給取りの1か月分3000円を1日で稼ぐこともあった。一方、羽振りも良くて福知山市にあったキャバレーを仲間と二人で借り切ったこともあった。そのため、収入の割には金はあまりたまらなかった。

   ◇試験受け架線技士資格、製材所の専属請負に
 
 
 5年ほどすると、山林労働は大きく転換していった。全国的に材木の運搬にケーブル架線が導入されるようになり、芦田さんも架線技士の国家資格を、西脇市にあった労働基準監督署に試験を受けに行って取得した。試験自体はそう難しくなかったが、実地に敷設して使うにはいろいろ困難があった。斜面の上と下に支柱を設けて架線を張るが、下の杉やヒノキの木は伐採できないので、うまくルートをとらなければならない。木や石を支柱にすることもあるので、木や石の位置や形を把握しておく必要がある。架線の長さは7、800mに及ぶこともあり、山を越える時は間に滑車を取り付けた。木馬とは反対に、芦田さんらはワイヤと器械を担いで下から上へと真っ直ぐに張っていった。ワイヤをつなぐにも技術がいった。「私の場合、普段から山に入っていたことが役に立った。いい架線ルートをすぐに選べた時は嬉しかった」。

 架線を使った山出しは、木馬ほどではないが、急傾斜を下りてくるので危険なこともあった。それでも搬出の人数は木馬に比べて少なくて済むようになった。木馬を曳いていても、新たな勉強が求められ資格が必要なケーブルの仕事にはつかなかった人もいる。芦田さんは架線の仕事ではリーダーになり、木馬曳きでは教えてもらっていた先輩を逆に教える立場になった。架線が張れず木馬による搬出を続ける山もあり、架線に精通するとともに木馬曳きの経験もある芦田さんの評価は高まった。

 25歳になったころ、芦田さんは請負い組の一員ではなく、近所の製材所の専属請負となった。戦後復興から高度経済成長に入る昭和30年代前半は木材の需要も伸び、製材所は冬場も木を伐りだして製材を促進しようとした。芦田さんも収入が増えていったことから冬場の寒天出稼ぎをやめ、山仕事一本に絞った。

  ◇建築板金業に転身、山仕事での人脈生かす

 しかし、東京五輪が終わり大阪万博が近づく昭和40年代になると、林業の環境は厳しくなってきた。氷上町成松に木材市場がで、製材所はそこで材木を買い付けて製材だけをするというやり方になってきた。以前のように製材所が山持ちとと話をつけて、伐採、搬出の工程まで仕切るというシステムが崩れてきた。外材の輸入も急増して内地材が押されてきたことから、山出しの仕事は目に見えて減少。35歳になった芦田さんは、「先の見込みがない」と20年以上携わってきた山仕事から転身することにした。

 芦田さんが次に選んだのは建築板金だった。異質の分野に見えるが、製材所を通じて建築業ともつながりがあり、茅葺の屋根の維持や防火のためトタンをかぶせる家が増えてきたことに着目していた。親類に板金業をしている人があり、芦田さんは仕事を終えた後に夜道を通って学んだ。


 技術を習得した芦田さんは、東芦田の大工と一緒に奈良県まで足を延ばした。「山仕事で各地を回った時に培った人脈が、この時に生きた。集落の中で顔がきくボス格の家から注文を受けると波及効果が大きいので、まずそこを狙った」。この戦略が功を奏して、寺や神社の仕事も取れるようになった。

 仕事の一方、芦田さんは東芦田のむらおこし活動のリーダー役を担った。旧家の修復保全の際にも、屋根の工事の時に培った茅葺き職人とのパイプが役立った。80歳を前に「もう充分仕事をした」と退いた芦田さんは、「仕事も地域活動も、人と人とのつながりがあってこそ。それと、いざという時にものをいうのは勘。これは経験と、よく考えることでしか身につかない」と振り返った。

          =2018.11.27取材 (文・写真  小泉 清)
              
     [参考図書] 朝倉隆ほか「村と森林」 1958初版 岩波書店
          
         
厳冬の屋外で技量発揮した寒天出稼ぎ (2013.2.7取材)
  
                        
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