初夏の東芦田・城の丸 兵庫県丹波市           

・場所 舞鶴若狭道・春日IC〜北近畿豊岡道・氷上ICを下り北へ10分で「ごりんかん」登山口
・時期  3〜6、9〜12月中旬が適期か
・電話  あおがき観光案内所 (0795・87・2222)
    =2018年5月20日取材

城の丸から望む東芦田の田園と丹波の山々
 
   
 3年ぶりに兵庫県丹波市青垣町東芦田のセッコクまつりに参加した。今回は会場の「ごりんかん」から吼子尾山(くずおさん、519m)の南東尾根を上がって頂上の「城の丸」に上がり、謎に包まれた山城の歴史に浸った。

 丹波攻めの謎を秘めた山城

   朝9時過ぎに交流施設「ごりんかん」に着くと、代表の芦田浅巳さん(72)らがおもてなしの準備中。ルートを確認し、裏側の獣よけフェンスを開けて山道に。すぐ上の「大岩さん」の岩肌で咲いているセッコクの純白な花=写真右=を見上げた後、岩場の道をたどった。このあたり、ソヨゴ、タカノツメなどの落葉広葉樹の新緑が映えていて快く歩ける。ただ、ところどころに現れる大岩の岩肌に注意しても、セッコクの姿は見当たらなかった。

 ◇急坂に巨岩、天然の要害か

 尾根道は北に向きを変え、ヒノキの植林地の中を進むようになり、見通しも悪くなる。右手、胎蔵寺から上がってくる道が合流する。ここからが結構長い道のりとなる。左手からの道を合すると、急な上り坂となり、その前には大岩=写真下=が立ちはだかる。南北朝の動乱から、織田信長の丹波攻めまで芦田氏の山城として使われたという吼子尾山、こうした巨岩が天然の要害になっていることは間違いない。

 急坂を登っていくと、標柱の立つ山頂が見えてきた。直下の山道の左手には石積みの跡とみられる段差があり、山城の遺構ともみられる。ただ、ほとんど崩れているため、専門家でないと、どこが山城の跡と特定するのは難しいだろう。

 山頂付近にはアセビが多く茂っている。花の時期は過ぎているが葉は鮮やかだ。東側には東芦田の田園、北側には丹波の山々が連なっている。眺望の良さからも、信長軍団の丹波攻めの時に、守る側にとっては、敵軍勢の展開を掌握する格好な場所となったことだろう。

◇33回続く元旦登山、新道や案内板整備

 山頂には展望台の土台となった鉄柱が残され、木の標柱には「第二五回 城ノ丸登頂記念 平成二二年一月一日」と書かれている=写真右。後で、標柱を立てた一人の長井克巳さんに尋ねると、東芦尾では昭和61年(1986年)から元旦早朝に新年登山を続けてきた。その開始にあたって麓から資材を運んで組み立て、木の梯子を取り付けて6人ほどが建てる展望台を築いた。山城に設けられたのろし台をイメージした。

 ただ、開設20年を経て老朽化が進み、危険になってきたため撤去された。33回目の元旦登山は今年も行われ、展望台の基部は火を焚く場所として使われている。

 「ごりんかん」からの尾根道は新年登山と合わせて整備された道で、道標も随所に建てられていて迷うこともない。外から登る者にとっても、地元の取り組みは本当にありがたい。

 ◇仁王が並ぶ古刹も今は無住、胎蔵寺に下山

  「城の丸」北側に尾根道は続いているが、一休みした後、元の道を戻った。巨岩の間の急坂を慎重に下った。登路と同じ道をとるのも芸がないので、途中の分岐では、南東へ胎蔵寺への道を選んだ。この道が古くからの道で、はじめははっきりした谷道を快適に下っていたが、里に近づくにつれて不鮮明になっている。登りの尾根道と比べ利用者が少なくなり、踏み跡が薄くなってきているようだ。

  それでも谷沿いに下り、流れを横切ると軽トラが入れる道に出たので、その道を里に向かって進む。小さな社を右手に過ぎ、鹿よけのゲートを外して胎蔵寺に下りた。堂の両側には仁王さんが立っている=写真左。奈良時代に法道仙人が山を登っていると吼え声を聞いて土を掘ると、小さい金銅仏の薬師如来が出てきたので堂を建てたというのが開基の伝承。最盛時は末寺として40寺を持ち、山の上の方には教学を教える僧坊もあったそうだ。

 60年ほど前まではもっと奥にあり、その近くの湧水を塗るとイボが治るといわれ「いぼ水さん」と呼ばれてきたという。水害で今の場所に移ってきたが、天台宗の胎蔵寺は檀家がなく、40年ほど前に無住寺となった。それでも、東芦田の貴重な文化遺産を守っていこうと活動が始まり、今も地区の人々の手で維持・管理されている。

 ◇植林で薄れた遺構、落城の伝承も

 庭木の手入れをしていた隣家の人に道を確かめて「ごりんかん」に戻ると、12時半のお昼時。筍ごはん、ごりんかん豆腐、猪肉入りうどん、クロモジ茶と東芦田の山と里の幸を使った手作り料理を味わう。落ち着いたところで、東芦田の人々に、今たどってきたルートについて尋ねた。

 芦田哲さん(75)は定年退職後、昔の桑畑跡にブドウ園を拓く一方で地元の歴史に目を向け、東芦田歴史学習会をつくって勉強してきた。その芦田さんが子供のころは吼子尾山の尾根筋の植林がまだ進んでおらず、城の遺構がよくわかった。山頂手前の石積みも三段の石垣となっていて、その上に乗って跳びはねると、ポンポンと音がして「中が空洞になっていて何かがある」と言われていた。中に宝物があるのではと堀った人もあり、瓦などが出土したという。

 城の時期を明らかにする発掘調査などは行われていないが、天正7年(1579)の丹波攻めで羽柴秀長の軍勢に攻められ落城したという見方が有力だ。 「『城に陣取った兵士が急坂を速やかに降りるため笹に油をつけて滑っていたところ、敵が火をつけたため一挙に燃え上がり、城を落とされてしまった』という話を子供の時におばあさんから聞かされていました」と芦田さんは話す。
 
 昭和30年ごろから頂上まで進んだ植林は、その後の木材価格の低迷などで山里に豊かさをもたらさなかった。残念ながら山の植生を単一化し、山城の名残を消してしまうマイナス要因ともなった。それでも、「ごりんかん」→「城の丸」→胎蔵寺と実際にたどれば、十分歩きごたえのあるコースだ。セッコクの初夏はもちろん、アセビの白い花が包む4月、紅葉の11月もいいだろう。

 ◇地域ぐるみで自然と歴史を取り戻す

 丹波の奥の奥というイメージがあるが、日本海に注ぐ由良川水系と瀬戸内海に注ぐ加古川水系が近接した地だ。「北陸で獲れたコメを日本海、由良川を水運で、その上流から陸路で穴裏峠を越えて加古川上流まで運び、加古川、瀬戸内海を水運で大坂に運んでいたことが、船問屋の古文書でわかりました」と芦田さんが説明してくれた。
 
 「山も落葉広葉樹林の自然を少しずつ取り戻してきています。来年のNHK大河ドラマは、丹波攻めを主導した明智光秀が主人公。城の丸や胎蔵寺についての言い伝えや出土品を調べ直し、地元からも解明を進めていきたいです」と芦田さんらは話している。     (文・写真  小泉 清)

 [参考図書] 青垣町「青垣町誌」青垣町、1975
城郭談話会編「図解近畿の城郭3」、戒文祥出版、2016

 20回目の節分草祭、山里に交流広がる  2024..2.12

 
青垣・東芦田のセッコク 2015.5.24
 
                            
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