閉山20年 三池炭鉱の記憶 関西で  大阪府吹田市       

・会期 「炭鉱の記憶と関西」展は6月6日〜30日、日曜休館。無料
・会場  関西大学博物館(千里山キャンパス簡文館内)
阪急千里線関大前下車、徒歩15分
・電話  関西大学博物館(06・6368・1171)
サイト「異風者からの通信」
    =2017年6月17日取材
三池炭鉱の資料について説明する前川俊行さん
 
   
 日本の近代化と戦後復興をリードした三池炭鉱が1997年3月に閉山して20年。関西大学博物館で開かれている企画展「炭鉱の記憶と関西」=写真左下=を訪れた。出炭現場、炭鉱住宅での生活、総資本対総労働の闘いといわれた三池争議(1959〜60)、458人が死亡した爆発事故(1963)、じん肺訴訟…が多くの現物資料、写真で紹介されている。濃密な内容もさることながら、その多くが、炭住で育った前川俊行さん(64)が集めたコレクションに拠っていることに驚いた。

父母が、自らが三池で生きた証残したい

 この日は土曜日で、前川さんが滋賀県彦根市の自宅から来場していたため、コレクションに込めた思いを聞けた。前川さんは1952年、熊本県荒尾市の三井鉱山緑ヶ丘社宅で生まれた。小学2年の9歳の時、争議で指名解雇された父に連れられて、兄と姉が働いていた岐阜県土岐市に移った。

 この時、三池では労組主婦会のリーダー役だった母から「三池から来たことを誰にも言うたらいかん」と言われたという。「父が三池労組側だったことで、“アカや生産阻害者”とされて私の就職でも不利になっては、と恐れたのでしょう」。その母の言葉があってか、続いて京都市の小学校に転校して自己紹介を促された時、一言も話せなかったという。

◇閉山前に解体、「ふるさと消える」とサイト開設

 ただ、前川さんは子供時代を過ごした炭住への思いを持ち続けた。中学生になった時、一人で荒尾を訪れて炭住の前にたたたずんでいると、じっと見ていたおばさんが「俊ちゃんね」と声をかけて家の中に上げてくれた。新婚旅行や在勤20年休暇の旅行でも、無人となっていた社宅跡を訪れた。

 京都で工場の寮管理人に再就職した父は、鹿児島県出水市生まれ。戦前に台湾に渡って農業に従事していたが、戦後に引き揚げを余儀なくされ、三池炭鉱へ。京都の寒さがこたえたこともあり「こんなとこへ来るんやなかった」と口にして、「今さら九州に帰られん」と言う母と争いになることが辛かった。その父が、寮の風呂を炊く時には三池争議での闘争歌を歌っていた。

 父に続いて母も福井で不慮の事故で亡くなった。それから15年、閉山を半年後に控えた19966年の秋、立て坑やぐらが爆破・解体される様子をテレビで見て「このままでは、ふるさとが跡形なく消えていく」という思いが募ってきた。閉山後、「父や母が三池で生きてきた証を残したい」とサイト「異風者(いひゅうもん)からの通信」を開設した。 
 

◇労働や争議の体験伝える品々託される

 三池で働いた人々やその家族から、共感の便りや品々が寄せられるようになった。高温で衝撃の激しい坑内環境から守る手製の時計入れ、争議のシンボルだったホッパーパイプなど200点を越え、亡くなったり、高齢で病気がちになった元炭鉱労働者やその家族から託されたものが多い。

 三池労組の檄文を書いた赤旗やバッジだけでなく、他機関が所蔵する新労組や職員労組の旗や会社側の壁新聞も展示されている。「地元ではまだ複雑な感情の問題もあり、関西だからできた企画です」と前川さん。九州から日帰りで見学に来ていた人もいた。 

◇萩尾望都、森ア東を育んだ炭都・大牟田

 映画館や貸本屋が多く集まっていた炭都・大牟田の文化も紹介されている。漫画誌に投稿するマンガ家志望の少年少女が大牟田では多く、ここで生まれ育った萩尾望都さんや、映画監督の森ア東さんのコーナーも。コーディネートした鵜飼雅則さん(66)は大牟田生まれ、炭鉱と一体に運営された三井東圧の社員だった父の転勤で小学生の時に大阪に移った。

 大牟田の建材商社が実家で、小学校時代をここで過ごした森ア監督は炭鉱が関係する作品も監督しており、鵜飼さんからの要請に快諾。閉山当時に書いたエッセイも寄せた。

 萩尾さんの父は石炭を運搬する三井三池港務所の管理事務を担当していて、高校卒業まで社宅育ち。「父は英語が得意で、港に入ってき外国船の船長さんに会いに連れて行ってくれました」という姉の思い出話が、当時の写真と共に紹介されている。

 萩尾作品の中に大牟田にからんだ情景やテーマやは直接見られず、「痛々しい不安な町」と語られ、そこから「落ち着いた静かなところ」への志向が出ている。こうした故郷への複雑な感情と少女時代の経験がどう重なり、作品の素地となっているか、もっと知りたいところだ。

 ほかに目立つのは大牟田・荒尾地区与論会が2007年から参加している大牟田市の大蛇山祭総踊りに着ている鮮やかな法被。台風被害で奄美群島の与論島から集団移住、炭鉱の中でも言葉の違いなどから差別された歴史と誇りを取り戻す活動が紹介されている。

  同展は、前川さんや鵜飼さんら大牟田にかかわる市民らがつくった「関西・炭鉱と記憶の会」が企画し、関西大学・政治経済研究所、エル・ライブラリー(大阪産業労働資料館)が共催。同館長の谷合佳代子さんは「三池からの転職者や家族が圧倒的に多い関西だから開けた展示。3年にわたって企画を練り、大牟田・荒尾を何度も訪れて広い対象で調査を行いました」と話している。

 私は前川さんと同じ年だが、三池争議も爆発事故の報道もかすかな記憶しかない。それでも、大阪府内の中学や高校には三池や筑豊から移ってきた友人がいて、この展示を機に思い起こした。
  
          (文・写真 小泉 清)  
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