日米開戦75年、陸軍少年飛行兵の3年を聞く                           

   

 7月下旬に河内祭の御船が古座川をさかのぼる和歌山県串本町古座(旧古座町)。長年、地元の世話役を続けてきた桝田義昭(よしてる)さん(88)は、陸軍少年飛行兵として昭和20年の終戦の夏まで戦争の中の十代を過ごした。最前線での戦闘や特攻には参加しなかったが、特攻要員を中核基地の大刀洗から出撃基地の知覧に運ぶなど重要な軍務を担った。
 
 ◇「一刻も早くお国のため飛行機乗りに」と志願

  桝田さんは、戦局が苦しくなった昭和18年(1943)4月、大津市の陸軍少年飛行兵学校に少飛16期生として入校した。旧制中学(5年制)の3年を終えたばかりの15歳。串本には海軍航空隊の基地があり、飛行機が離着陸するのを見て刺激され、大空の夢を広げていた。「お国のために役に立たなければ」という気持ちが叩き込まれており、「戦場に出るのなら飛行機乗りに、ちょっとでも早く行きたい」という気持ちだったので、卒業を待てなかった。海軍では予科練があったが「中学を5年で卒業する年が基準」とされていた。これに比べて陸軍少年飛行兵学校は「中学3年を終えていればいい」ということだったので、開校したばかりの大津陸軍少年飛行兵学校を選んだ。

 選考は厳しかった。飛行機乗りとしての適性が重視され、血圧などの健康診断に加え、回転装置に縛って乗せられてぐるぐる回されるという検査もあった。停止後に目の焦点がどれだけ早く戻るか、検査官が厳しくチェックした。どんなに体力があっても、飛行機乗りとしての適性がなければ落第だった。古座からは桝田さんら2人が受け、そろって合格したことが「町の誇り」として話題になった。中学の仲間らが古座にあったカフェで送別会を開いてくれ、当時は御馳走となっていたライスカレーが出された。田の少ない南紀ではすでに国産米が手に入らず、シナ米(中国産米)だった。

    ◇大津、熊谷、樋川、松本と訓練重ね大刀洗へ 

  大津の学校では1年間の年限の間に、操縦、通信、整備のすべての分野にわたって基本訓練を一通りやった。操縦を希望する者が多かったが、適性によって操縦、通信、整備と分け、それぞれの専門を学ぶ場に進んでいった。入学の際の関門を通過していても、いざ訓練に入ると、怖くなり、わざとサボって飛行機乗りでなく、地上の通信士や整備士になろうとする生徒もいた。

  桝田さんは志望通り操縦士としての適性が認められ、昭和19年4月には、操縦士を養成する埼玉県の熊谷陸軍飛行学校に進学、上等兵となった。熊谷では戦闘機、爆撃機、偵察機と機種別に操縦の基本を3か月間みっちり教えられ、機種別の進路が決められた。戦闘機が最も人気があったが、ここでも桝田さんは戦闘機乗りに選ばれた。同じ埼玉県の桶川分教場には河川敷に飛行場があり、そこで2か月間、実践的な操縦訓練を続けた。97式戦闘機をもとにした練習機で、教官が同乗していたが、自分で操縦することもあった。

「技能と知識が求められた分、操縦士の待遇は良かったです。大津の学校以来、訓練の時にも殴られたりすることはありませんでした」。

   桶川にも空襲が広がったため、昭和19年秋には長野県松本市に新たに疎開用に建設された陸軍松本飛行場に移った。木製だけでなく金属製の練習機もあり、離着陸訓練などを行った。ただ、燃料の不足で訓練は限られ、水平飛行と急降下に限定。松本飛行場以来、相手機の背後に回り込んだりする空中戦の高度な飛行訓練は受けることがなかった。「燃料を食ううえ『逃げる手立てを考えてはいけない』という考え方だったのでしょう」。

疎開用につくられた飛行場で地盤が軟らかかったため、100人が真横に並んで足で踏み固めることもあった。松本ではまだ余裕があり、休暇では集団で浅間温泉に行った。航空兵は家族や地元にとっての誇りだったので、ここでは自由に写真を撮って家族に送った。

  ◇空襲の間隙縫い、知覧へ特攻要員を移送飛行

  そして特攻作戦が本格化した昭和20年4月ごろ、桝田さんは前線の大刀洗飛行場(現・福岡県筑前町)へ配属された。この写真はこの時期に当時の甘木町の写真館で撮影したものだ。西日本で最大級の陸軍飛行学校が設けられた大刀洗では、特攻隊員となった多くの飛行兵が訓練を受けていた。特攻機が飛び立ったのは、大刀洗の分校だった鹿児島県の知覧からで、桝田さんは操縦補助員として上官とともに輸送機で特攻要員4,5人を大刀洗から知覧に運んだ。末期には大刀洗から直接特攻機が離陸したこともあったが、多くの場合、大刀洗から知覧に輸送された隊員が、知覧に配備されている特攻機(陸軍では多くが九七式戦闘機)に乗って沖縄方面に向かった。

  1週間に1度くらいだったが、燃料の不足や天候の状況で、計画が中止になることも多かった。敵の空襲の合間を縫っての飛行。「今のような探知機はないし、空襲で通信網もずたずただったので、勘で飛び立ち、敵機来襲で引き返すこともあった。輸送機が襲われたことはなかった。特攻隊員とじっくり話をするという余裕はなかった」。

  桝田さんは、特攻隊員に選抜されたり、米軍機とと直接交戦することはなかった。「戦闘機の操縦士になるには1年、2年では不可能だった。今のような正確な天気予報はなく、天気図を書いて風向きを予想することも教えられた。5、6機で編隊を組んで飛ぶので隊長機の指示をきちんと理解し、ついていくのが必要だった。特攻へ行ったのはもっと早く訓練を早くから受けてきた人。17歳の自分はまだ頼りないから特攻機には乗せなかった」。

 そのころになると、燃料の状況がさらに厳しく、桝田さんが飛行練習することはなかった。特攻要員の訓練内容も高等技能を要する訓練は行わず、「自分が乗らなくても、プロペラの回転音で『これは水平飛行や』とわかりました」。

 大刀洗飛行場は3月27、31日にB29編隊の大規模空襲を受け、周辺住民を含め多くの犠牲者を出した。米軍が大量に投下した時限爆弾が不発のまま残っていて、桝田さんはその処理も行った。落下したとみられる場所に旗を立て、爆弾を掘り出して信管を抜く。処理中に爆発する事故もあったが、幸い死亡事故には至らなかった。終戦前の7月ごろには、この不発弾処理が課業の中心となった。

 ◇終戦時に鳥取へ 「ソ連を迎え撃つ」動きも

 そして8月15日の終戦。玉音放送を聞いた記憶はないが、これで解散かと思った桝田さんに「鳥取に行け」という命令が下った。空542部隊の一員として鳥取に着いた。「なぜ終戦になって鳥取に行かされたのかわからずじまいだった」。さっそく「日本は負けて終戦になったが、ソ連とやるんや」という話を現場の下士官から聞いた。 

現地の部隊編成もごちゃごちゃで、どこに配置されていたかも思い出せないが、兵舎はなく、近くの小学校の校舎で寝泊まりした。「なぜ、終戦になったのにソ連と戦うのか」とよくわからなかったが、広い砂浜があって日本海が見える飛行場に真新しい飛行機が5、6機並べてあった。「これはソ連とやるつもりで置いてあったんや。やるんやったらやったろうやないかと思った」。(場所は、戦争末期に建設され、大刀洗に替わって特攻要員の訓練も行われた鳥取市西郊の湖山飛行場と推測される)。

  しかし、この「終戦後の対ソ戦継続」という混乱は長くは続かなかった。上層部から戦闘態勢を解除する命令が入り、部隊長が全員に招集をかけて「日本の敗戦は決した。飛行機を敵の手に渡すよりは焼却する」と命じた。「『ソ連が来るからといって何者ぞ』という気持ちはあったが、上官の命令は絶対でした。『撃墜されたのならともかく、新品の飛行機をなんで自らの手で焼かなあかんねん』と泣きながら点火しました。まさに、いい飛行機ほどよく燃えました」。

  ◇郷里の駅に下りた途端、緊張の糸切れる 

 その後、桝田さんは事務の手伝いを命じられ、復員証明書の発行に追われた。これがないと、列車に乗って故郷に帰ることができなかった。終戦処理が一段落した9月6日、桝田さんは除隊となり、故郷に向かった。鳥取から福知山経由で天王寺に。列車は途中停まっては動き、乗り継ぎ乗り継ぎという状態で、1週間かかったような記憶がある。天王寺で5、6時間待って紀勢線に乗って古座駅に着いた。

 鳥取では戦争の継続を見越して軍服が保管されていて、その在庫を処分するため、除隊の際に10着近い軍服を渡されていた。テントでつくった袋に軍服を入れて運んできたが、古座駅に降りた途端に緊張の糸が切れて、立ち上がれなくなってしまった。駅員が知り合いだったので、家族に連絡して迎えに来てもらった。3年間の軍隊生活の緊張がいっぺんに解けた故郷、桝田さんの戦争はこれで終わった。

  ◇同期の仲間は減っても、忘れられない経験

  兄弟4人は無事で、三男だったので浦河家から桝田家に養子に入った。帰郷後、古座の町役場に勤めたが、給料が少なかったので、浜辺で塩づくりをして、三重県に持って行って米と交換したこともあった。その後、林業者の紹介で古座町出身者の多い大阪市大正区の製材所に勤め、鉄道用枕木を扱っていて(一時盛況だったが)倒産。再び郷里に戻り郵便局に入局、電報電話事業が分離してからは電電公社に勤めた。その一方で、消防団長や河内祭の世話役など地域のリーダーを務めてきた。

 桝田さんは、毎年開かれてきた大津少年飛行兵学校16期生の集い、和歌山県の少年飛行兵の集いに参加してきた。しかし、会員の死亡や高齢化で同期会の参加者は10人から4、5人くらいに減り、桝田さん自身も近年は「大阪近くの会場まで行くのが大変になってきた」と控えている。しかし、「古座にずっといたところを、少飛に入ったおかげで、いろんなところから来た人と知り合うことができた」と話すように、桝田さんにとって、少年飛行兵としての3年間は忘れられない人生の時期だった。

 戦後71年、古座の人口減少と高齢化は歯止めがきかない。河内祭の担い手の確保、住職のいないお寺の維持、南海トラフ地震での避難対策と桝田さんは引退のいとまもなく、地域での取り組みを続けている。

             (文・写真  小泉 清)=2015.9.26、2016.5.30取材

               本土決戦の準備進めていた鳥取


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