本土決戦の準備進めていた鳥取                                                
 鳥取県で陸軍が使用していた飛行場は米子(三柳)飛行場か鳥取市西郊に大戦末期建設された湖山飛行場で、桝田さんがいたのは湖山飛行場とみられる。大刀洗が空襲されたことから、両飛行場で特攻要員の訓練や教育隊の飛行訓練が行われていた。防備の手薄な鳥取県の砂浜に米軍が上陸することも想定し、地下壕が構築されるなど本土決戦の準備も進められていた。最近、地元の若手研究者の実地調査などによって、考えられていた以上に鳥取県の軍事的存在が大きかったことが明らかになってきた。

 時期はともかく、桝田さんが大刀洗から鳥取への異動命令を受けたことは不思議ではなかった。

 8月15日以降にソ連軍が鳥取県をはじめ日本海側沿岸から上陸する可能性があったかどうかはわからないが、終戦後に樺太や千島列島に侵攻、北海道をうかがっていたことは歴史の事実。現場の下士官を中心に、「武装を解かずに、ソ連を迎え討とう」という動きが出たことは自然な流れだったといえる。

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 鳥取での終戦前後の動向は、混乱期ではっきりしない点が多くあります。もし、そのころに鳥取駐在部隊におられた方がおられましたら、お話を聞かせていただければありがたく存じます。

ともあれ、少年飛行兵としての2年半近い訓練や活動を、詳しく話していただいた桝田さんには感謝の気持ちでいっぱいです。

                          =2016.5.30取材 (文・写真  小泉 清)

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