古里の山で再発見、クリンソウ守り育て40年                                
クリンソウの開花状況を見に来た5月13日夕、林道から大屋の集落に下りると、杖をついて散歩している年配の方と出会った。クリンソウの育ての親ともいえる藤田忠次さん(85)だ。2010年、2014年に続いて、自宅庭に谷水を引いた栽培地で満開のクリンソウを見せてもらい、大戦中の昔にさかのぼって話をうかがった。

  ◇海軍電測学校でB29をレーダー探知

 藤田さんは高等小学校を卒業して家の仕事をしていた18歳の時、太平洋戦争の激化で海軍に志願、1944年9月に神奈川県藤沢市で開校した海軍電測学校に入った。日本が米国に大きな後れを取っていたレーダーの開発・探知・操作要員を養成しようと、大急ぎで郊外の広大な農地を造成してできた学校だ。

 一番記憶に残っているのは、昭和20年5月の横浜大空襲。その時、藤田さんは学校の普通科を終え、実戦配備待ちだったが、猛爆下でB29のレーダー探知を続けて高度などを算出し、校内に配備されていた高射砲部隊に伝えた。横浜方面が燃え続けるのを見たが、撃墜したのは1機に留まった。墜落した米機を調べると、レーダー探知を避けるために機体に雲母を張り付けるなど対策をとっていることがわかった。

 藤田さんの同期は、前半・後半に分かれ、まず前半が戦線に配備されることになり南方に向かう途中、米潜水艦に沈められた。藤田さんら後半組も続く予定だったが、その前に終戦になった。「上官に殴られて死んだ仲間がおり、上の兵隊は報復を恐れて終戦とともに逃げていったりとて軍隊生活にはいやな思い出がある。一方で、世間はこういうものかと知り、こうした体験があったから今まで来れたかとも思う」と藤田さんは振り返り、「やはり同期の半分が死んだことが今も忘れられない」と力を込めた。

  ◇急坂は後押しの代燃車、観光バスで遠方巡る

 9月に郷里に戻って地元の兵庫県土木事務所に勤務。林業では昭和10年代からトラックが入っていて、車の運転に関心があった藤田さんは正式に運転免許を取得、好きな運転を仕事にしようと神姫バスに入った。当時はガソリンも軽油もなく、木炭や薪を燃料にする代燃車の時代。三木の急坂ではパイプに水がつまって動かなくなる。乗客もよく心得ていて、頼まれなくても下りてバスを押した。

 やがてディーゼル車が復活し、昭和30年代になって生活が落ち着いてくると会社は観光バスに力を入れ始める。藤田さんも試験を受けて観光バスの運転手になり、2人1組で西は鹿児島、東は東京まで回った。仕事は面白く、給料も良かったのでずっと続けるつもりだったが、父が年をとり、共有林の手入れなどむらの役を自分がしなければならなくなった。観光バスの運転手は長く家を空けなければならず、上司から慰留されたが退職。播州織の工場を始め、一時は「ガチャマン景気」でにぎわった。

  ◇谷あいに保護地、自宅庭に育成地設け再生

 50歳前に山を歩いていてクリンソウに目が留まった。12歳のころに父に連れられて入った山で群生していて心に残った花だが、自生地が荒らされ、ほとんど見られなくなっていたことに衝撃を受けた。当時は名前もわからなかったが、西脇の学校の先生に教えてもらい、「再びクリンソウの広がる山にしよう」と保護活動を始めた。「水に恵まれた笠形山に自生していたクリンソウも、日本が豊かになって山野草ブームが起きた昭和50年ごろから、盗掘でめっきり減っていたのです」。谷の下流に保護地をつくり、自宅の庭には谷水を引いて育成地として、少しずつ保護地で自生するクリンソウを増やしていった。

 これまでクリンソウの花が咲く季節には、地元の小学校の児童がこの育成地を訪ねて、クリンソウを通してふるさとの自然を学んできた。4月29日の「笠形山登山」には、参加者へ渡す記念品として育成地で育てた200鉢を用意してきた。

 冬は笠形山南面の村人3、4人と組んでイノシシ猟に山を駆け回ってきた藤田さんも高齢で足腰が弱り、山に登るのは難しくなってきた。2013年からイベント向けの育成も次の世代に引き継いだ。それでも、今も30株ほどは育て、毎年楽しみに見に来る人もいる。昨年は鉢を持って地元の小学校を訪れ、育て方を教えた。

 海軍電測学校、観光バス運転手と、戦中・戦後のさまざまな経験を踏んで古里の山で再び見つけた宝。クリンソウを守り、育てる活動に「引退」はないようだ。
  (文・写真  小泉 清)

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