寒天づくりの頭領の心得、後々まで生きる              
 冬季に寒天づくりの出稼ぎに行っていた丹波市青垣町の東芦田の集落。2015、16年の節分草まつりでは、主に畦野(うねの、川西市)に出稼ぎに行っていた塩見重男さん(87)に当時の思い出をうかがった。
  2013年に話を聞かせていただいた芦田晴美さん(82)が「寒天づくりの先輩」という塩見さんは、高等小学校を卒業後、昭和18年に船坂(西宮市)に初めて出稼ぎに行った。その後、戦後の激動や肉牛の飼育、養蚕で手一杯だったので行かなかった。しかし、昭和30年代になると養蚕が衰退してきたこともあり、30歳くらいから再び寒天出稼ぎに行くようになった。

 畦野は妙見山の登り口「一の鳥居」の近く。今では宅地化が進んでいるが、当時は船坂や高槻と並ぶ関西の寒天の産地だった。他の産地では11月から出稼ぎに行かなければならなかったが、それでは大麦の植え付けなど稲刈り後の農作業に支障があった。畦野なら植え付けをすませて12月からでも行くことができた。

  ◇「押し付けでなく、相手のこともよく考え」人を動かす

 畦野は寒天産地の中でも東芦田から近く、妙見参りでなじみ深かったが、厳しい仕事であることは変わりなかった。「正月も作業が続き、私は年末年始に一度も帰らなかった」と塩見さん。家で不幸や事故があれば途中でも帰れたが、塩見さんの場合、そうしたことはなく、家業の牛の市場が立つ12月の1日だけは休みをとった。

 しばらくして頭領が亡くなったため、跡を引き継いだ。全体の段取り、新入りの教育を行いながら通常の作業もこなした。人集めも重要な仕事で、山仕事などの人脈を生かして確保、いざという時に備えてピンチヒッターも用意した。作業は一斑5人くらいでのチームプレー。「上から押し付けても駄目。といって甘くするのでもなく、相手のこともよく考えたうえで動いてもらう」ことが頭領・塩見さんのモットーだった。

 父が出稼ぎ期を前に77歳で亡くなったことから、塩見さんは後継者を決めたうえで寒天づくりの頭領を引退した。それからほどなく昭和50年ごろには畦野での寒天づくりも終わった。それでも、頭領を務めて自然と身に着いた人の動かし方は、養蚕組合長や消防分団のリーダーとなった時に生きたという。

  ◇徴兵検査直前に終戦、気持ち切り替え米や牛に全力

 寒天出稼ぎと前後するが、70年前、昭和20年8月15日のころの記憶を尋ねた。実は塩見さんはこの年の9月に徴兵検査を受ける予定だった。この時期になると、徴兵検査前でも志願で戦場に赴く若者が多く出てきて、塩見さんの同年代で中学に進んだ二男、三男の友人は予科練に応募して戦死した人が多かった。塩見さんは長男で、父親からの意向もあって「検査まで待て」という感じだった。特攻隊の発案者として有名な大西瀧治中将は隣の西芦田の出身で、小学校上空を激励飛行したこともあったが、「大西先輩に続け」というように呼びかけられたことはなかった。

 8月15日、塩見さんは正午に玉音放送があることを知らず、農作業をしていた。ラジオを持っていた人は限られており、寺の施餓鬼に行っていた父が玉音放送があった話を聞いて教えてくれた。その時は、ほっとしたというより、「もう少しで徴兵検査を受けて戦いに行けたのに」と感じたという。しかし、戦時から戦後への切り替えは速かった。小作農だった塩見さんの家も農地改革で畑地を得ることができ、水田への転換に奮闘した。肉牛の飼育に力を入れ一時は20頭を飼育、佐治や石生、和田山の市に出した。農協の指導を受け飼料の栽培を工夫、市場で高い評価を受けた。

 むらを取り巻く環境も、なりわいも大きく変わったが、自身の歩みを振り返りながら塩見さんは、「息子も孫も、家を受け継いでくれたことが嬉しい」と明るい表情で話した。
                           =2015.2.8、2016.2.7取材=           (文・写真  小泉 清)                                                                                                                             本文のページへ戻る