牛と上がったススキの草原への道                                                
 上山高原から青下の集落に下りた時は日も暮れたので、翌24日の朝、改めて青下を訪れ、畑でアズキの収穫をしていた小畑(こばた)重忠さん(71)に手をとめていただき、昔から今までの話を聞かせてもらった。

 かつてはどの農家にも牛、特に雌牛が1頭はいて農耕で大きな力になるとともに、その牛が産んだ子牛を市場で売ることで貴重な収入を支えていた。牛小屋は家の玄関のすぐ横に置かれて、牛は大切にされていたという。 「牛の世話は子供にとって大事な仕事でした」と小畑さんは振り返る。昭和18年に農家の長男として生まれた小畑さんは小学2年生のころから牛の世話係だった。学校から帰ると1時間は牛を散歩に連れていき、道端の草を食べさせた。「但馬牛には配合飼料より朝霧に濡れた自然の草が一番いいのです」。草の中でもススキが一番で、里にもススキを育てた場所はあったが、やはり上山高原だった。7月の梅雨明けごろ、浜坂で行われる川下まつりに合わせて「鎌入れ」となり、この日から山麓の集落の共有地だった草原でのススキの刈り入れができるようになる。ちょうど小学校も夏休みに入り、ススキを刈ってその場で干して2、3日後に取りに上がる。

 「こういうふうにかついで下りてきたんですよ」と小畑さんが物置から運搬に使った道具を出して実演してくれた。軽い材質の桐の荷い棒に稲わらで編んだ大きな袋を前後に下げるクワフゴ。昭和30年ほどまでは養蚕が盛んで、特に桑の葉はこれで運んだ。袋でなく4本の縄をつかう「四把」(しわ)もあり、若い頃は、これで30キロほどかついだという。ちょっとしたロープも首から肩にひもをかけると「おいそ」と呼ばれる運搬具に早変わり。今でも炊きつけに使う杉の葉をこれで運んだりするが、昔は木の皮をはぎ、編んでつくったひもを使っていた。

 9月の農繁期には家で牛を構ってられず、学校も農繁期休みになるため、小畑さんが牛を上山高原のススキ原に連れて上がった。「家から外に出すと、引っ張らなくても牛はどんどん山道を上っていきました。帰る時も自分から山道を下りていくんです」と小畑さんは少年の日に還ったように話していた。

 牛の餌になるススキは、カヤと違ってあまり長く伸びていない軟らかいものだそうだ。かつては4mほどにも積もる雪が溶けるころ草原に「火入れ」をしてササやかん木の侵入を防ぐとともに、餌に適した1年生の若いススキの成長を促していた。

   小畑さんが鳥取県の農業高校を卒業して家に帰ってきたころから、牛を取り巻く環境も変わっていった。まず、農作業の機械化とともに、山麓のどの農家でも飼われていた農耕用の役牛は姿を消していき、小畑さんの家でも昭和37年には役牛がいなくなった。牝牛に子牛を生ませる繁殖経営は貴重な収入源として続いたが、飼育方法の変化、配合飼料の普及、自動車の一般化で、上山高原のススキを餌にすることはなくなった。このため、「旧草原界」のススキ原が笹やかん木の林に替わってきた。

  ◇繁殖牛の放牧も一部復活、地元力で草原を再生

 しかし、平成になって、上山高原にスキー場などを設けようとする開発計画がバブル崩壊や阪神大震災で頓挫。兵庫県が周辺部を買収、自然を生かした場とする方向に転換した。集落などをまるごと生きた博物館として自然や伝統文化を守り生かそうというNPO法人「上山高原エコミュージアム」が山麓の住民を中心に8年前に発足、ブナ林やススキの草原の再生を進めている。

 事務局長の馬場正男さんの話では「海上集落で繁殖牛を飼っている農家でも、ススキ草原での飼育の良い面が見直されるようになり、牛に草を食べてもらってススキ草原を維持するため5月から10月にかけ10頭を放牧しています。昔の広さにはとても及びませんが、草原の面積は増えて来ています」という。 地元の集落では、ススキ草原復元作業で出る灌木を原木にしたシイタケも生産。特産品として、エコミュージアムの拠点のふるさと館で販売している。

 四季を通じて行われるプログラムで都市から訪れる人も参加しているが、日々、高原に上がって草を刈り、ブナの苗木を植えている中心となっているのは地元の年配の人たちだ。小畑さんも今年3月まではエコミュージアム保全部会員として作業に加わり、また阪神間から応援に来た人を自宅に泊めるなど協力してきた。

 牛の飼育は家族ぐるみ。小畑さんも母を見送った平成10年に繁殖用の牛の飼育を終え、いま青下では牛の姿を見ることはない。しかし、山が迫って耕地が限られた青下でも、明治はじめにできた水路で新田が開かれ、米づくりが行われてきた。ブナやミズナラ、トチの落葉広葉樹林が広がる扇ノ山から霧ケ滝などの名瀑を下って流れてくる清流。小畑さんも小さな流れを利用してワサビをつくっている。

 幼い時からの長いかかわりがあり、恵みがもたらされてきた山と高原だからこそ、豊かな環境を自らの手で取り戻そうと里の人たちが動いているのだろう。
                                        =2014.10.24取材、小泉 清

   *2020年の再訪*  回復進むススキ草原、茅葺き屋根に生きる

  霧ケ滝探勝の帰りに「上山高原ミュージアム ふるさと館」に寄り、事務局長の馬場正男さんに、その後の自然再生事業の動きを尋ねた。特にススキ草原の回復の取り組みは、灌木や笹の刈り取り作業が続けられ、面積は2014年以降でも10haに達している。新しい草の芽の成長を促す4月の「山開き・山焼き」もイベントとして定着、都市からの参加者は光景を見るだけでなく、防火帯の設置・監視などの作業に参加している。

 このように回復してきた草原のススキを茅葺屋根に使うカヤとして活用しようという動きが2016年から始まった。もともと上山高原のススキは牛の餌になりカヤとして使われることはなかったが、神戸市北区を本拠に民家の茅葺屋根の葺き替えを行っている職人集団「くさかんむり」が茅場として着目した。全国的に茅場が減少、「くさかんむり」でも熊本県の阿蘇地域からカヤを調達しており、同じ兵庫県内の上山高原のカヤを使うことの利点は大きい。

 現在、上山高原では、海上集落の牛の放牧地以外のススキ草原で、穂が伸びた11月から12月にかけてカヤとして1200束を刈り取り、束ねて出荷している。地元の人の仕事の合間の作業なので数量が限られているが、需要はまだまだあるので、2000束の供給をめざしている。

 茅葺き職人の技によって、文化財をはじめ古民家の茅葺き屋根になっていると聞くと、上山高原のススキの穂が一層きらめいて映るだろう。 (2020.7.2)
       
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