記念図書館に今も生きる加藤文太郎                                                
  扇ノ山登山の翌日の10月24日、加藤文太郎の古里・新温泉町浜坂に加藤文太郎記念図書館を訪ねた。寄贈された山岳関係図書4700冊のほか、愛用のスキー、ピッケル、直筆のはがきもあり、文太郎に寄せる全国の人々の熱い思いが詰まっていた。

 上山高原に再び行ったりで、図書館に行けたのは閉館1時間前の夕方5時だったが、20年前の開館時から勤務している司書の西川茂代さんに詳しく説明してもらった。明治38年に浜坂に生まれた文太郎は神戸の造船所技師として働く一方、冬の北アルプスを単独行で駆け回り「単独行の加藤文太郎」として名をはせたが、結婚した昭和11年、ヒマラヤを見据えて神戸の山仲間と挑んだ槍ヶ岳北鎌尾根で遭難。30歳で亡くなり、生家近くの墓地で眠っている。

 文太郎の遺稿集「単独行」や新田次郎の小説「孤高の人」は広く読まれてきたが、地元の浜坂ではほとんど知られていなかったと西川さんはいう。そこに一石を投じたのが大阪府豊中市の元高校教師立岩照光さんからの山岳図書2000冊の寄贈申し出だった。いろんないきさつを経て浜坂町(2005年に温泉町と合併し新温泉町)に贈られた本は「加藤文太郎山岳文庫」として当初、他の施設に置かれていたが、この本を活かす目的もあって、公立図書館では例のない個人名を冠した加藤文太郎記念図書館が平成6年に開館。それから郷土の先人として小学校でも教えられるようになり、古里で知られるようになった。

  ◇愛用のヒッコリースキー、創刊以来の「山渓」も

 現在、1階が一般の図書館、2階が文太郎をはじめ山岳図書・資料のコーナーとなっている。山岳図書は当初の寄贈に続いて、全国の文太郎ファンからの寄贈、町の購入分を加えて4700冊にのぼる。登山愛好者が寄贈した創刊号以来の「山と渓谷」全号もあり、これは同社にもない貴重なコレクションだ。加藤家の人と地元の研究者が編集した追悼集もあり、文太郎を亡くした後生きてきた妻の花子さんや娘さんの思いも読める。

 本だけでなく、加藤家から寄贈された遺品の登山靴やピッケルも公開されている。ミズノ製の長いヒッコリースキーは、「この時代のものが残されているとは…」と美津濃の関係者が驚嘆したという。本人のものではないが、ファンが寄贈した当時使われていた同型のワカンもある。山スキー仲間で後年は但馬の山々の紹介と自然保護に尽力した多田繁治さんあてのはがきでは、「孤高の人」のイメージとは違う人懐っこさが感じられる。遭難や遺体が発見された時の紙面も。文太郎が所属したRCCの創設者・藤木九三氏の追悼の言葉が刻まれ、槍ヶ岳に置かれた青銅板の原板が掲げられている。どれを見ても、家族や友人、読者に愛された文太郎の姿を示している。

   ◇開館20年、全国から、古里から熱い思い

 西川さんによると、文太郎を追ってこの図書館を訪ねる人は、グループ、個人合わせてひと月に120人。北海道から沖縄までに及ぶ。氷ノ山や扇ノ山に登った後か前かに寄る場合もあれば、この図書館だけを目的に浜坂に来る人もいて、西川さんは「亡くなって70年近くたった今も、加藤文太郎は生きているんだなと思います」と話す。

  記念図書館は開館した10月に毎年「図書館まつり」を開いているが、今年は開館20年ということで、5日にクライマー山野井泰史さんの講演会、18日に三成山(536m)の山歩き講座などのイベントを行った。山岳図書コーナーの運営やイベントには「加藤文太郎山(さん)の会」が協力している。図書館を軸に町民から加藤文太郎をめぐる輪が広がっているようだ。

 文太郎をめぐっては、扇ノ山から下りた23日に泊まった「澄風荘」のご主人の谷岡整さん(65)と女将さんさんの信子さんにもいろいろお話をうかがった。店を持つ前、浜坂町商工会に勤めていた谷岡さんは「加藤文太郎を語る会」を結成、「加藤文太郎山岳文庫」の受け入れでは、寄贈先について熟慮する平岩さんと話し合い、豊中まで迎えにいったとそうだ。藤木九三氏の子息の藤木高嶺氏(元朝日新聞編集委員)は「澄風荘」を宿に浜坂を度々訪れている。谷岡さんも九三氏を記念して芦屋ロックガーデンで毎年9月末に開かれる「藤木祭」に参加している。

 浜坂の街並みを見下ろす城山の「加藤文太郎ふるさとの碑」を谷岡さんに薦めてもらったが、ここは時間切れ。「山岳文庫」の精読とともに、次回の楽しみに取っておきたい。
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 「加藤文太郎記念図書館」は木曜休館に注意。電話0796・82・5251。

                                        (文・写真  小泉 清)
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