越後から関東へ赴く間、戸隠の峰に親鸞聖人の足跡                                   
  高妻山に登った翌日の8月13日、山麓を歩いた。イースタンキャンプ場から赤紫のツリフネソウの花が咲く湿地の間の遊歩道を歩いて戸隠神社奥社へ。続いて鏡池、森林植物園を巡って中社を訪ねた。

 中社には宝物館の「清龍殿」があり、戸隠の信仰の歴史をわかりやすく紹介していた。特に、江戸幕府の体制で戸隠山顕光寺が天台宗の東叡山寛永寺下に入った後の元禄年間、51代別当・見雄の時代に即した政策を企画展「別当の決断」として特集。元禄10年に定めた「戸隠山年中行事掟」で修験者以外の入山が禁じられていた高妻山を、6月15日から7月20日に限り登山を許可し、山道整備の笹刈りに60人を動員したことは興味深い。

 ただ、これだけ繁栄していた顕光寺が、明治維新の廃仏毀釈の動向があったといえ、なぜ戸隠神社に模様替えしてしまったのは不思議だ。幕府にしっかり支えられてきた寺だから、幕府がなくなれば逆にもろかったのだろうか。

 続いて親鸞聖人の故事を遺す中社門前の「武井旅館」を訪ねた。旅館といっても御主人は神職で、神仏分離までは天台宗の中道坊行勝院。縁起書によれば、親鸞聖人は越後から関東に向かう途中に、比叡山で学んでいた時の朋輩の中道坊寛信を訪問し百日逗留。その間、奥院から一不動の険路を登って高妻山頂上に達し、読経されて阿弥陀如来の来迎を拝したと伝えられる。武井旅館の一角には親鸞聖人堂=写真右=が設けられ、聖人像のほか、来迎のお姿を聖人が描いた雲座阿弥陀如来図(複製)、愛用のあかざの杖が置かれている。翌日の中社の例祭準備のため御主人にはお目にかかれなかったが、前もって電話で教えてもらっていたため、スムーズに堂を参拝できた。

 親鸞聖人には、越後での配流を終えてから関東に赴くまでの間、善光寺の坊・堂照坊にいて戸隠に通い、高妻山からの帰途に笹の葉をを並べて「南無阿弥陀仏」の六字名号を書いたという伝承がある。14日朝には仁王門すぐ前の堂照坊を訪れ、笹字の名号の軸=写真左=を拝観させていただいた。8月14日は、浄土宗の坊の住職が1年に1回、早朝にそろって全坊を回る行事の後だったが、坊守さんは名号堂を開けて丁寧に説明してくれた。次の代の住職が京に戻った親鸞聖人を訪ねた時に聖人の歯が欠け落ち、いただいたという歯も残されていた。先の武井旅館もそうだったが、お西、お東を問わず真宗門徒が個人やグループで拝観に来ているようだ。

 越後から関東までの間の親鸞聖人の行動は記録としては残っていない。しかし、地理的な位置関係や、善光寺和讃からみても聖人が信州に足を踏み入れたことは自然だろうし、比叡山で鍛えた脚力からも、戸隠の峰々に登ったことは十分考えられない。そして、長野の人々が宗旨を越えて親鸞聖人の事蹟を守り伝えてきた気持ちは大切に受けとめたい。この空白の期間の歴史的研究や伝承の解読が進むことで、親鸞聖人のみ教えがより広く受けとめられるのではないか。
(文・写真  小泉 清)
                                    本文のページへ戻る