新免遺跡で見える弥生~現代 大阪府豊中市         

   
        
           

竪穴住居(手前)と方形周溝墓(後方)が高密度で出土した高層マンション予定地

・時期  新免遺跡で現地保存された箇所はなく、現地説明会時に限られる。第70次調査地では2014年3月23日に実施予定。

・交通案内  
阪急豊中駅西口から徒歩の範囲

電話 豊中市教委文化財保護チーム(06・6858・2581)

                        =2013年12月14日取材=
        
  豊中市立花町3丁目、玉井町2丁目の4か所で進められていた新免遺跡発掘調査の現地説明会が、12月14日行われた。高層マンション建設予定地では濃い密度で出土した弥生時代の竪穴住居跡、方形周溝墓の跡を専門家から説明してもらい、見学者らは「大昔から住むのにいい場所やったんやね」と話し合っていた。

   大昔、昔、今、そして将来も良好な住宅地に  

  新免遺跡は阪急豊中駅西側を中心に東西600m、南北300mの範囲に広がる弥生、古墳次代を中心とした遺跡。1981年から調査が積み重ねられているが、10月から68~71次の本発掘を実施していた豊中市教委文化財保護チームが、調査成果を広く公開するために開催。参加者は午前10時と午後1時の2回、玉井2丁目の3階建てマンション予定地に集合。11月9日の出前講座でおなじみの陣内高志さんから全体説明を受けた後、配布資料を手に各調査地を回った。

 ◇方形周溝墓から祭祀用つぼ型土器

 立花3丁目の第70次調査地では、調査担当の清水篤さんらが解説。弥生時代中期(約2000年前)の方形周溝墓2基が見つかっているが、墓穴5か所のうち一つは幅1m、長さ2・5m、深さ40cmと他より大型で、「この時代でもリーダーなど有力者の墓穴は大きく、深く掘っていたのではないか」とのことだった。また、底に穴を開けた祭祀用のつぼ型の弥生土器(高さ20cm)も溝から見つかり展示されていた。

 竪穴住居は弥生時代後期(約1900年前)から古墳時代中・後期(約1500年前)までの間の遺構が多数出土。後期の掘立柱建物の可能性がある柱穴も多く発掘された。「豊中駅から西側に広がる新免遺跡の中でも、南西寄りのこのあたりは弥生中期までは墓地のエリアでしたが、建物の密集度からも、弥生後期からは中心居住地の一つとなり、その後も長く住み続けられてきたのでしょう」との説明を受けた。

 ◇「須恵器の大流通拠点」の可能性高まる

 玉井2丁目の3か所でも、特徴のある遺構が見られた。高校野球メモリアルパーク北東の一戸建の第71次調査地では、直径5mの円形竪穴住居が弥生中期のタイプの灰穴炉を合わせて出土、参加者は弥生人の生活の跡に見入っていた。灰穴炉は土を掘った穴の中の灰の上につぼを乗せて煮炊きする炉。弥生後期から古墳時代には、地表に土や石で作った支脚につぼを乗せる地床炉を設けるようになり、炉の形式で竪穴状居の時代がわかるそうだ。

 本通北側の第68次調査地では、ヘラを使った丁寧な発掘作業を見学できた。「古墳時代の土器としては、土師器でなく品質が高い須恵器が大量に見つかり、びっくりした」と文化財調査会社のチーフ。ここから北東6キロには須恵器の一大生産地・桜井谷の窯跡が出土しており、新免遺跡が桜井谷と千里川の水運で結ばれ、産品を選別して運び出す流通拠点だった可能性を改めて裏付けた。

 ◇豊中空襲の惨禍示す爆弾投下の巨大な穴も

  集合場所の第69次調査地では、ずっと時代を下った昭和20年6月7日の豊中空襲で米軍のB29が投下した1トン爆弾の爆発跡とみられる巨大な穴(直径15m、深さ2・5m)を公開、出土した戦時中の粗製の「国民食器」も展示された。この空襲では日本生命社宅に住んでいた16人が死亡、当時国民学校4年生で防空壕にかぶさった土砂の中から救出された杉田宏さん(78)も訪れ、当時の体験や思いを語っていた。犠牲者の中には同級生二人がいた。戦後、日本生命寮の一角に慰霊碑が建てられ、杉田さんは毎夏その日に慰霊に訪れていたが、寮の閉鎖に伴い碑も撤去された。

 風が強く寒い日だったが、地元住民のほか遠方から来た考古学ファンら約550人が参加。発掘担当者に熱心に質問をする人も目立ち、原始から現代まで途切れなく続いてきた地域の歩みを感じ取っていた。

 ◇後世のために発掘の成果を形に残そう 

 発掘された場所は順次埋め戻されるが、立花3丁目の調査地は、調査済みの面積が全体の3割程度で、竪穴住居跡などがさらに広がっている可能性もあり、新たな成果が期待される。

 豊中市教委は「今回の調査で、弥生時代の中心的な集落としての姿が一段と鮮明になってきた」としている。「よほどのものが出ないと現地保存は難しい」とのことだが、公園にモニュメントや説明板を設置するなど、地域の歴史を伝える積極的な工夫を望みたい。出土品についても、歴史的価値があるものが多いだけに、できるだけ公開してもらいたい。また、豊中空襲の惨禍は、そうした事実があったことも知らない人が地元でもほとんど。宗教色のある慰霊碑は無理でも、事実を記録した銘板は後世のためにも設けるべきだろう。

 そして新免遺跡が一番語るメッセージは、大昔から今まで、この地の人々が、住みよい暮らしを求めて工夫をこらし、努力を積み重ねてきたということだ。その上に建設が計画される建物は、そうした土地にふさわしいものでなければならない。                                 
  
(文・写真  小泉 清)                                                

  弥生~古墳期、新技術導入した先人の軌跡  2014.3.23取材
  
  マンション提供公園に新免遺跡の説明板    2017.2.20掲載  

豊中空襲で別れた友、尽くせぬ語りいつまでも  2020.10.17取材