雪も花も…古里の山の魅力伝え続けて              
   氷ノ山は、京阪神からでも車を使えば日帰りで登れる山だ。それでも、下山すればすぐ帰るのではもったいないと、その日は福定の民宿「喜楽屋」に泊まって、主の西村さんに昔から今までの話を聞かせてもらった。

 「10歳ごろ父が氷ノ山のブナ林までキノコを採りに連れて行ってくれて、それから山が好きになりました」と西村さん。地元でスキー愛好会をつくり、雪の氷ノ山や鉢伏山を登り滑った。戦後復興が進んできた当時、ゲレンデでなく自然の山を舞台にした山スキーが盛んで、中学を卒業した西村さんは近くの宿屋に頼まれ、スキー登山客のガイドを任されることになった。コースは東尾根往復や東尾根から鉢伏に向かうコースなど。吹雪やガスで全く視界がきかず、現在地を聞かれても「雲の上にいる」と答えてカンだけを頼りに滑り降りたり、後続者の姿が見えず「ついてきていますか」「います」のやりとりだけで確かめたこともあった。

   ◇杜氏にはならず山スキーガイドに

 客はスキー靴をはきスキーにあざらしのシールをつけて登ったが、買う余裕のなかった西村さんはスキーに縄を巻き、長靴で単板スキーをはいて登り降りした。客の弁当を背負い、深い雪をかき分けるラッセルはいつも先頭に立った。「10日間続けて雪山に入ったこともありました。1日600円くれましたが、これは父が酒づくりの出稼ぎで稼ぐ日当と同じ額で、母親が喜んでくれました」。

 当時、但馬の農山村では、冬には男が出稼ぎに行くのが普通で、但馬杜氏として酒造りをするか、大阪で風呂屋のかまたきをする人が多かった。同じ集落の杜氏頭が杜氏を引き連れて和歌山の蔵に毎冬行っていたが、誰を選ぶか頭の胸一つのため、田仕事を手伝ったり隠れて歓心を買うといった弊習があり、こうした封建的な気風にがまんできなかった西村さんの父は「酒の出稼ぎには行かんでいい」と西村さんの自由にさせてくれた。

 杜氏にはならなかったが十代の一冬、但馬出身の口入屋の紹介で大阪・天満の風呂屋で働いたことがある。二階の狭い部屋に住み込み、朝は建具屋を回ってかんな屑を集め、石炭と一緒に燃やした。「風呂屋の兄ちゃん」として、風呂場でのぼせて倒れた客を介抱したこともあった。休みの日はかけごとなどせず、脱衣場にポスターを張るかわりに映画館がくれる招待券で映画を多く見た。

 昭和36年2月には昭和天皇の弟君・高松宮殿下のスキー登山を案内。「スキーの名手で、兵庫県スキー連盟の幹部がミカンの皮を雪の上に捨てたのを見て『山では持って帰るものだ』と注意されたことを覚えています」。

  ◇シニアも子供も それぞれの登り方応援
 

 高度成長時代にスキー場が次々開かれ、山スキーからゲレンデスキーにかわって、西村さんは氷ノ山国際スキー場に勤めスキーを指導してきた。しかし、若者を中心にスキー離れも進み、10年前にスキー場を退職してからは、山の案内を中心にしてきた。「事前に頼まれてなくても、登山ガイドをしてあげた方がいいと思ったお客さんには、山に登る朝『これから一緒に行きます』と声をかけます」と誰にも山を安全に楽しんでもらえるよう気配りしている。

  登山道の整備や点検のほか、植物への説明板の取り付けも。この日は登山大会に向けて「連樹」で生える7種類の植物の名を書いた説明板を作っていた。「地元の人間として自然をよく知ってこそ、山を楽しんでもらうころができる」というのが西村さんの信念。「熊が出てこないかと怖がる登山者が多いが、熊の方が人間を怖がっており、自然に通り過ぎていれば襲うことはありません。ただ、子連れの熊に出くわした時が怖い。熊ほど親子のつながりが深い動物はありません。子供を放って逃げるようなことはしないんです」と話は尽きない。

 関宮町や八鹿町など4町が合併した養父市が2004年に発足してから、中学生は福定からの周回コース、小学生は南東の大段平からの往復コースで氷ノ山登山を行っている。「子供にはもっと厳しさもいりますが、『山に登ってしんどいけど楽しい』と言われると嬉しいですね」と顔をほころばせた。
                                         
                                                               (文・写真  小泉 清)

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