今に生きる王仁博士と千字文との出会い               
  王仁が日本に漢字を伝えるため百済から携えてきたといわれる「千字文」。千の文字が重複なしに使われ、250句の漢詩となっていて中国、朝鮮、日本で漢字の教本に使われてきたが、今の日本では読む機会もなく遠い昔の書物としか思っていなかった。しかし、王仁塚に「千字文碑」 を寄贈した宝塚王仁ライオンズクラブの会長だった孫允化(ソン・ユンファ)さん(76)にとって千字文は、戦後の新しい時代と学びの出発点となる教材だった。

  ◇民族教育の教室、千字文で漢字学ぶ

  父が全羅南道麗水(ヨス)から大阪に職を求めてやってきた孫さんは、大阪市生まれ。「戦争中の国民学校からの帰り道、同級生に民族を差別することばをかけられ続け、怒ることもできなかった悔しさは今でも忘れられない」と振り返る。韓国・朝鮮の人々にとって「光復」にあたる日本の敗戦を迎えたのは国民学校3年の9歳の時。半年後には30人くらいの児童を集めた寺子屋式の教室で民族教育が始まり、ハングルとともに漢字を教わった。

 「この教室では国・大阪府によって閉鎖されるまで3年ほど学びましたが、運動場がないので体育もできず、理科は道具もなく、音楽は流行歌で教えていました。その中で先生が持っていた千字文は数少ない教材だったので、印象が強く残っています。国民学校では基本的な漢字を習っただけだけで、千字文に出てくる字は難しかったのですが、詩として意味がある並び方だったので、よく覚えることができました」と振り返る。

 それと合わせて、日本の皇太子の師として招かれ、千字文によって漢字を伝えた王仁の業績も初めて教わった。「そのころは生きていくのが精いっぱいで『民族の誇り』と思うまではいきませんでしたが、王仁博士が全羅南道出身であることも聞いて、尊敬と親しみの気持ちをもつようになりました」という。

   ◇碑の建立事業に巡り合えた幸運

  不動産の世界に入った孫さんは、一から経験を積んで30代で今の会社を創業、王仁博士の名を冠した宝塚王仁ライオンズクラブに入会して社会貢献活動も始めた。会長となった1997年夏に「千字文碑」建立の提案があり、寺子屋式の教室で学んだことを思い起こして資金集めや府教委との折衝に奔走。王仁塚が大阪府史跡に指定されて60周年の98年5月に除幕した。

 ハングル化が進んだ韓国では、日本や中国との交流の観点から漢字を再評価する意見がある一方、『漢字を学ぶ時間があれば英語の勉強に』という声も強く、漢字教育がなかなか進まないそうだ。千字文は、韓国では歴史的に漢字の教本として日本以上に使われてきたが、今は一般人にはなじみがなくなっている。日本でも千字文を知る人は限られ、王仁塚を訪れてもせっかくの「千字文碑」を見過ごしてしまう人もいるようだ。

 それでも、千字文の冒頭の6句と、王仁が詠んだ「咲耶此花(さくやこのはな)」の和歌、「…博士王仁の千字文と論語による、仁と徳の思想と教訓を永遠に記念すべく…」の顕彰文が刻まれた碑を見ると、東アジアをめぐる文化と歴史の広がりを感じることができる。「私にとって、幼い時に人としての倫理も説いた格調高い千字文を学び、王仁博士と出会えたことが今でも生きています。この千字文碑を建立する事業に再び巡り合えたことは本当に幸運でした」と孫さんは語っている。
                               
                                        (文・写真  小泉 清)

                                                  →本文のページへ戻る