国際化時代を先導 三尾発の精神                  

  1週間後の12月14日、アメリカ村カナダ移民資料館の西浜久計(ひさかず)館長(84)=写真左=を訪ね、三尾のカナダ移民の意義や、館の今後のあり方について聞いた。

 西浜さん自身は三尾で生まれ育ったが、日本でずっと教育を受けて高校の数学教師になったためカナダで生活したことはない。しかし、移民の先駆者・工野儀兵衛と血縁があり、父と兄はカナダ太平洋岸のリッチモンドでサケ漁をしていた。父は1939年に隠居生活に入るため帰郷、兄は太平洋戦争中は収容所に入れられ、1946年に帰還船で帰国したが、1951年に再渡航した。現在、4人のめいとその成人した子供たちがバンクーバー周辺に住んでいる。西浜さんは定年退職のころに「カナダ移住百年誌」の編集と執筆を頼まれたことがきっかけで、カナダに何度も渡り三尾からの移民の歩みの研究を続けてきた。

 西浜さんが感じているのは、戦前から戦後を通して三尾からの移民者が持っていた開拓者精神。「三尾を制するものはスティブストンを制す」といわれ、同地を中心とした西海岸のブリティッシュ・コロンビア州に集中していたが、「当時、一から生活の基盤を築いて行くには集まって住み、結束を保つことが最善の方法だったのでしょう。その中で勤勉に働き生活を律したことから、カナダの中での評価が高まっていったのです」と西浜さんは語る。「結婚は写真を送り合って決める“写真結婚”が多かったのですが、親がどんな人柄かはみんなよく知っていたので、失敗することはありませんでした」と移民の心をつないだ「カナダの三尾村」の情報力も指摘した。

 ただ、こうした「ストにも加わらずに働き、稼いだお金を日本に送るという勤勉や節倹の美徳が一面で行き過ぎとも感じられ、カナダの白人にも違和感を抱かせて、太平洋戦争中に敵性外国人として苦難を受けた素地になったことは否めません」という。こうした反省もあり、戦後はカナダ社会に溶け込むことを重視し、集まって住むことはやめて分散し、カナダ的なもののの考え方をしていくようになったという。

 ◇多文化主義の中で輝く真の大和魂

 私が印象付けられたのは三尾の人たちの新しい時代への転換力だ。「『自分の子は、できれば日系人と、もっといえば三尾の子と結婚してほしい』というのが親の世代の感覚だったのですが、現実には子供が白人の相手を家に連れてくると『人柄が良かったら』と認め、孫ができると『青い目の孫もかわいいもんや』となってきたようです」。

 こういうカナダへの融合は一方で、日系人の日本語離れを招いた。「戦前は教育は日本でないといかんという考えがあり、老後は三尾で隠居暮らしをするので、日本語ができなければなりませんでした。今はずっとカナダにいるので、日本語を話せなくなってきたのも不思議ではありません」という。スティブストンとバンクーバーでは日本語学校が開かれ、放課後に通う子供もいるもののの、その数は減ってきたという。

 それでも、日系カナダ人は日本語を忘れないでほしいと西浜さんは願う。「日常のことばは当然英語であっても、家庭や日本語学校で日本語に接し、大学の第二外国語で日本語を選んでほしい。そうすれば必要な時に日本語を使えて自分の可能性を伸ばせる」。西浜さんのめいの夫の日系人はカナダの公認会計士の資格を持つカナダ企業の会社員だったが、社命で東京に赴任、その前に夫婦で本格的に日本語を学び、西浜さんと日本語で手紙のやり取りができるようになったそうだ。

 西浜さんの日系カナダ人への期待は、カナダが掲げる多文化主義への共感にも基づく。「戦争中の排外的な軍国主義はだめだけど、三尾からの人たちは本当の大和魂を持っていたと思うんです。そうした心や奥深い精神文化は世界に通用するものでしょう」。今は多様な民族が元の言葉を保って文化を展開させようとしているカナダで、三尾出身者をはじめ日系人が、国際化の先駆けとして走り続けてほしいというのが西浜さんの願いだ。

◇先人の苦闘学ぶ場 もっと生かしたい

 こうした三尾の移民の歴史を伝える場として1978年、移民を経験した小山茂春さんらの資料を中心にアメリカ村資料館が開館、その後を西浜さんが受け継いで改築・改称や展示の充実を進めてきた。また、地元の美浜町はふるさと創生事業の1億円を基金とした国際交流事業で1990年から隔年で町の青少年6、7人をバンクーバーに派遣、間の年にはブリティッシュ・コロンビア州和歌山県人会を通じて日系カナダ人の青少年を受け入れてきた。
 しかし、こうした取り組みは難しい局面に立っている。町の国際交流事業は運用益の減少などで補助金が出せなくなり、2004年の派遣を最後に行き来がストップした。アメリカ村カナダ移民資料館=写真右=は、日の岬パークの経営主体が南海電鉄の関連会社から地元企業に変わってからも存続しているが、併設の施設だけにスタッフは置けず、研究グループなどくわしい説明が必要な時には無給の西浜館長が出向いている。以前、和歌山県に県営施設への移管を打診したが、実現しなかったという。

 2010年10月には、JR御坊駅前からアメリカ村(三尾)を経て日の岬パークへ上がっていた南海バス系の路線が、会社の経営合理化策で三尾の少し先の海猫島止まりとなった。資料館を訪ねるにもマイカーでないと難しくなり、遠方から来る移民の関係者や大学の研究者からは不便を訴える声が西浜さんにも寄せられているそうだ。

 役所の事業の整理が何でも当然とされている現況だが、研究者にとって欠かせない場となっているアメリカ村カナダ移民資料館の意義と、現状には落差がありすぎるように感じる。日ノ御碕自体、レジャーの場というより、紀州の自然と歴史を学ぶ場としてきちんと位置づけ、地元の市町や県が館の運営や、期間や本数は限っても公共交通の確保にある程度の支援を行うことは、元気と誇りのある町づくりのうえでも必要ではないだろうか。大学も説明文の英訳など学生の教育を兼ねて運営への協力ができるのではないか。カナダ帰りの人が建てた三尾の洋風住宅も、貴重な文化財として適切な形での保全が課題となってきている。

 「カナダ移民の歴史を調べ、広く伝えていく後継者探しが私にとっては最大の課題です」と西浜さん。昨年には美浜町カナダ交流会が発足、「今後は社会人を中心にカナダとの行き来を続けていきたい」と話す。時代は変わっても、この地が先人の苦闘の歴史を踏まえ、これからの国際化を考える場所であってほしい。

                                    (文・写真 小泉 清)

                                                                →本文のページへ戻る