★ 太平洋戦争下のカナダを生きて                   

   三尾の人々がカナダと日本にまたがって戦中戦後をどう生きぬいてきたのか。カナダで1941年12月7日に太平洋戦争開戦のニュースを聞き、終戦まで強制移動先の内陸部で過ごした小山ユキエさん(95)=写真=に尋ねた。

 カナダで生まれた小山さんは2歳の時に三尾に戻って育ち22歳で三尾出身の左平ニさんと結婚、2か月後の1938年5月にカナダに再び渡った。すでに日本人のカナダへの渡航は難しくなっており、左平ニさんが市民権を持っていたため可能だったという。

 一家は三尾の人が集まっていた西海岸のスティブストンに住んだが、3月から10月までは夫が単身でサケの漁場に出かけ、小山さんも缶詰工場やイチゴ農園などで働いた。「三尾出身の人の中で、ふだんは三尾のことばで生活していたので寂しいとは感じませんでした。日本からの船を見たときには、これに乗れば日本に帰れるのかと思ったことはありましたが…」。
三尾・アメリカ村で小山ユキエさん
 二人の子に恵まれた小山さんにとって12月7日の「パール・ハーバー攻撃」のラジオニュースはただ驚きだった。「毎日の暮らしに追われていて日本とアメリカやイギリスとの間が険悪になっているということはあまり知りませんでした。カナダにいてもみな日本人という気持ちが強かったので、開戦当初日本が勝っていったのを喜んでいました」。

  日本の快進撃が続いていた1942年2月、日系人に対し海岸から100マイル以遠への移動命令が出た。小山さん一家は収容所に入らず、また東部までは行かず内陸部のミントに移ることにした。収容所と違って普通の家に住めたが、仕事は漁業ができなくなり、白人の経営する製材所で働くことになった。

 「戦争はそう長引かずに終わると思っていたのでわずかなものしか持って出ず、アルバムなどの思い出の品はなくなってしまいました。3歳の長女と7か月の長男を抱えて不安がなかったわけではありませんが、今は行くしかないという気持ちでした」。

 こうした時も三尾の絆が続いていたことが心強かった。「ミントでも2、30家族が一緒だったので、自分たちで幼稚園のようなものを開いたりして助け合いました。生活には困らず、日本人だからといって嫌がらせを受けることもありませんでした。1945年になってカナダに残るか日本に帰るかを選ばされた時も、残る方を選びました」。

  ◇どんな時も「ここでやっていくしかない」

 そして終戦。元のスティブソンには戻れず、別の町で引き続き製材の仕事に従事した小山さん一家だったが、三尾の夫の家からのたっての願いで1946年末に最後の帰還船で帰国した。

 以来、家族の世話をしながら田畑を耕してきた小山さんはカナダに再び渡ることはなかったが、長男は中学卒業後に伯母を頼ってカナダに行き、東部のトロントで会社員になった。息子が最初に白人の女性と結婚した時は「手紙を取り落とすほどに落胆した」小山さんだが、後に2人の孫を三尾に1年半引き取り幼稚園に通わせた。

 1988年にカナダ政府は日系人の強制移動に対する公式謝罪と補償を行った。「長い間折衝してきた方々の努力のおかげです。カナダ政府が過去の誤りときちんと認めたことは良かったと思っています」。

 小山さんが再びカナダの地を踏んだのは1997年。スティブストンの家は面影もなかったが、自動車関連の企業経営者として成功している孫とも再会できた。今は退職した長男は、この10月にも三尾に3週間ほど滞在し、ふだんも電話するので「カナダを遠いと思ったことはありません」。

 カナダに残った三尾出身の人々とは、世代が替わっていくにつれてつながりは薄くなってくる。「寂しい気持ちもありますが、これも時代の流れ」と話す小山さん。「日本でもカナダでもいろいろなことがありましたが、どんな時も、ここでやっていくしかないと思って懸命に働いてきました」と歳月を振り返った。

                               ◇

 小山さんを初めて訪ねたのは8年前の2003年12月。95歳の今も活動的な毎日を送っている。畑は人に貸しているが、時々は自ら草刈りをし、「できるだけ体を動かさないと」とゲートボールに替えてグラウンドゴルフの練習を続けている。この日もペタンクの練習に、山寄りの三尾小学校跡のグラウンドへしっかりした足取りで向かった。

                                                     (文・写真 小泉 清)

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