★ 暮らし支えた道 途切れずに                      

鯖街道の昔を語る清水さん夫妻 2009年の10月終盤の30日、紅葉の深まりを確かめようと再び百里ケ岳へ向かった。途中、小入谷の集落の清水幸太郎さん(80)と妻の之枝(ゆきえ)さん(80)=写真左=を訪ね、先日聞き足りなかった鯖街道や山にまつわる話をうかがった。

 昭和30年代まで小浜から根来坂の峠を越えて魚などの行商人が来たことは前回聞いたが、小入谷をはじめ針畑の集落の人々も峠を越えて小浜に通っていた。「むらから2時間ほどで峠の北の上根来に到着、その次の集落からは小浜へバスが通じていたので、ここまで歩いて昼には小浜の街中に着けました」。清水さんは「子供の時は父に連れられて小浜に行きましたが、街に出るというだけでもわくわくする気持ちになりました」と振り返った。

 ふだんは一人か家族ごとに行ったが、結婚式や法事などでまとまった食材が必要な場合は、むらぐるみの「輸送体勢」をとった。「まず一人が小浜の街まで箱詰めにした魚や菓子を受け取りに行き、軽トラックやタクシーの入れるところまで運びました。そこに根来坂を越えてきた担ぎ手4、5人が待っていて、箱を『負い紐』でしょって登りました」。男たちは山仕事に行くため、こうした担ぎ手はほとんど女性で、10貫(37.5キロ)を超す荷を背負って2時間半くらいでむらに戻ったそうだ。

 「担ぐ」といえば、百里ケ岳のシチクレ峠の東側にマンガン鉱山があり、採取したマンガンを、之枝さんらむらの女性が峠を越え、現在の登山口の小入谷越まで運搬していた。重さは15貫(56.25キロ)、ゆっくりゆっくり歩くとはいえ登りもあるコースを4時間かけて運んだそうだ。「そのころは担ぐのが当たり前でしたから。運び終えるとすぐに現金がもらえるのでいい仕事でした」と之枝さんは話した。

 山里から小浜へ運ぶものはなかったのだろうか。清水さんの親の代までは、ブナの木の杓子(しゃもじ)、クルミの木の下駄を冬の副業として男が作り、小浜へ行く時に魚屋などを通じて売ると重宝がられたという。クルミはキリと似て軽くて丈夫で、よく生えていることから使った。「下駄つくりには力と技術がいり、上手下手は履いてみるとすぐわかりました」。ただ、下駄の需要が減ったためか清水さんの世代には、この技術は継承されなかった。

 当時作られた杓子や下駄は残っていなかったが、山仕事や峠越えをする時に弁当を入れて肩にかける「すかり」と呼ぶ網目の袋を背負って見せてもらった=写真左。これに男は円形の大きめの弁当箱、女は楕円形の小さめの弁当箱を入れたが、水筒のようなものは携えなかったそうだ。「山は今より水が豊かで、水飲み場がいくらでもありました」。

 この峠越えも自動車が普及してきた昭和30年代後半にはなくなった。買い物も主に車で安曇川のスーパーなどに行くようになった。「一度車に慣れ、ふだんから歩くという習慣がなくなると、もう坂歩きをしてまで小浜に出ることはなかったです」。

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 山仕事も少なくなった昭和40年(1965)、むらを離れた清水さんは銀行、之枝さんは自動車部品工場に勤めた。これまで縁のない仕事だったが「同じ年くらいの人が多くて楽しかった」と之枝さんは話した。

 定年後の平成元年(1989)に古里に戻ってきた清水さんは、もう山仕事をしたり、峠道を行き来することはなかったが、別の形で山に入った。地元の登山グループ・朽木山行会で百里新道の整備や荒れた鯖街道の復元に参加し、特に木の道標づくりに取り組んだ。里に近い焼尾地蔵堂=写真右=は、林道建設で切られた杉を使って建て替えた。農耕の牛を飼っていたころは、エサにするカヤを確保するため、毎年4月、この堂のあたりまで山焼きしていたという。鯖街道の焼尾地蔵

 「登山者やハイカーがよく利用するので10年くらいで、きちんとした道になってきました。外から来て歩いてもらうのは、山にとってもいいことです」。地元の老人会が運営する針畑休憩所では、鯖街道歩きのハイカーらの自炊宿泊も受け付けてきた。

 バンガローを建てる都会の人もいて、むらには「廃村の危機」といった暗いイメージは感じない。清水さんらの話には、時代の変化を取り込んで生きてきた明るさも感じた。奥の奥のようでも、峠を越すと海につながっていたむらの持つ開放性があるのだろうか。 
 
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