霊峰を1日で登り下りして一人前に                  
                            
                           

  もともとの加賀禅定道は、白山一里野からさらに北の鶴来(つるぎ)(白山市)の加賀番場=白山比盗_社本社=から続いていた。

 2008年に白山比盗_社本社と白山市立鶴来博物館を訪ねた時に注目したのは、現在の白山市域を中心とした手取川扇状地の農村で、若衆が加賀禅定道を登る白山参詣が昭和初めまで続けられてきたことだ。展示や学芸員の説明によると、白山参詣登山は集落ごとに、未婚の若者が一人前の男として認められる証しとして行われてきたという。

 加賀禅定道の天池室跡 大正5年に16歳で登山した農村青年の日記などに記録された行程では、初日は集落の氏神に詣で、白山比盗_社に参拝した後、白山一里野の手前の尾添に着くが、そこでは仮眠する程度。午前零時には尾添の村人の先達の松明に導かれて山道に入り、昼前に御前峰に着いて奥宮に参拝、下りは越前禅定道を使って2日目のうちに一ノ瀬に下りて温泉宿に宿泊。3日目は鶴来まで歩いて白山比盗_社を参拝した後遊郭に寄り、4日目に村人の出迎えを受けるという日程だった。加賀禅定道の天池近くには、江戸時代の登拝登山者の宿泊に使われた天池室跡=写真右=が残っているが、こうした若者の参詣登山では普通、山中では泊まらなかった。


 私を含め現在は通常で3日かかる登山道の部分を、1日でこなす日程。特別な修験者や登山家ならともかく、一般の農家の若者が達成するのだから、当時の人の足の強さには驚くばかりだ。

 また、この参詣登山は白山比盗_社への参拝などは含んでいるものの、社寺の組織などを通じたものでなく、若衆の自主的な動きとして行われている。難行の一方で、温泉や遊郭など楽しみの要素も組み合わされている。白山から流れる手取川の恵みを受ける人々にとって、白山はそれだけ身近な存在だったのだろう。

 この若衆による加賀禅定道登山も、昭和に入ると交通機関の発達などで行われなくなってきたというが、これ以外に戦時体制の強化などの要因もあったのだろうか。このころから白山登山には最短コースの砂防新道が使われるようになったり、1934年(昭和9年)の大水害でハライ谷沿いの道が荒れたなどして加賀禅定道は廃道化したらしい。国体を前にした1987年になって、地元の旧尾口村の要望も受けた石川県が「貴重な文化遺産」として復元したそうだ。

 越前禅定道の一ノ瀬〜別当谷分岐間も、1990年代以降にハシゴなどがつけられ復元したものだ。両ルートとも登りはもちろん、下りに使う人も少ないが、歴史ある道の多くが消えている中、復元され道標も整っていることはありがたい。加賀禅定道の油池周辺では、旧道の再現と植生の復元のため登山路を付け替えるなど、保全への努力も続けられ、避難小屋もよく維持・管理されている。

 すでに白山の基本コースを経験済みで、ある程度の体力のある人なら、天候などをにらみながら禅定道を次のルートとして検討しても良いのではないか。


  〔参考図書〕
 小倉学「信仰と民俗」1982 岩崎美術社
 石川県白山保護センター「白山の禅定道」2001。同センターのサイトからPDF版が取得可能。


          下山は越前禅定道で市ノ瀬へ
                                                 
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