井手の玉川の山吹と桜  京都府井手町      

・花期 桜は樹種で異なるが、3月下旬〜4月下旬。山吹は4月上旬〜5月上旬
・交通  JR奈良線玉水駅(快速停車)すぐ南
・電話  井手町役場(0774・82・6168)
    =2011年4月20日取材

桜が散りゆく井出の玉川で咲き進む山吹
  
 
 
 奈良時代の文人政治家・橘諸兄(たちばなのもろえ)ゆかりの地で、数々の歌に詠まれた井手(いで)の玉川。堤の桜はほぼ葉桜になっていたが、そのあとを受けるかのように、諸兄ゆかりの山吹が黄金色の花を開き始めている。58年前の昭和28年(1953)夏の山城大水害の惨事からの再生で植えられてきた桜と山吹は、今年も見後な春のリレーを演じている。  

   大水害から甦った歌枕に春のリレー

  国道24号線から上流の橋本橋まで川沿いに1.5キロ。500本の桜とともに1万本の山吹が続き、椿や雪柳の花も競演する。黄金の滝のように枝垂れて咲く山吹の花はほとんどが一重の五弁だが、八重白花もいくらか混じり、色かたちの変化を楽しめる。枝はか細く微風にも揺れて、撮影しようとしても花の場所も定まらない。山で風に枝がなびく姿から山振(やまぶり)と呼ばれたという説もうなずける。

 桜の方は、今年も4月上旬に「桜まつり」が開かれたが、東日本大震災を受けて例年行われているライトアップ、川沿いの玉川寺でのお茶の接待も取りやめた。しかし、今年は3月に寒さが残った分花を長く楽しめ、上流に向けてたどればまだ花が残っている木も見られる。八重桜など花期の遅い桜はちょうど今満開だ。散った花が水面や川床を薄紅色に染めているのを見ながら歩くのも楽しい。

 川を少し離れて菜の花の広がる北側の田園の中を東に進むと「井堤寺(いでじ)跡」で、発掘された礎石4基が並ぶ。奈良時代に左大臣を務め、万葉集の撰者・歌人としても知られる諸兄が築き、七堂伽藍が並ぶ大寺だったという。川の南側、橋本橋から竹林の中の小道を10分ほど上がった小高い場所に「橘諸兄公旧址」と刻まれた大きな石碑が建つ。付近に広大な別荘を営み、聖武天皇も招いたと伝えられる。

 玉川堤の山吹は井堤寺の金堂のまわりとともに諸兄が植え、黄金の花が川面に映る姿を楽しんだという。玉川は平安時代から歌枕の地となり、山吹やカジカが多くの和歌や俳句に詠まれた。

 
  ◇惨禍から立ち直りろうと植え育てる

  しかし、その穏やかな川も1953年8月14日から15日にかけての豪雨が引き起こした山城大水害で土手が決壊、井手町だけで107人の死者がでる惨事となり、山吹も全滅した。
現在の山吹は大水害後から、地元の人たちでつくる「井堤保勝会」のメンバーが中心となって育てたもの。川のすぐ南側にある玉川寺の住職で、保勝会事務局長を長く務めた弘元信雄さん(80)に話をうかがった。

 当時滋賀県の親類の寺から京都市内の大学に通っていた弘元さんは、水害の知らせを聞いて玉川寺に駆けつけた。国鉄は途中から運転を打ち切っており三駅を歩いて戻ると、寺は流されて跡形もなく、いとこの住職の一家3人が亡くなっていた。近くの学校には棺が並べられ、檀家だけで18人が犠牲となっていた。井手町に戻った弘本さんは新住職として寺を再建する一方、保勝会など地元の活動に取り組む。河川の拡幅など改修がなった5年後、玉川堤の山吹の復活と桜の植樹を始めた。「新たに桜を植えたのは、堤により華やぎをというだけでなく、日かげを好む山吹を回復させるには、桜の木があった方が効果的と考えてのことでした。堤への桜の植樹は防災上どうかという指摘もありましたが、当時の蜷川虎三知事の判断で実現しました」と振り返る。

  「周囲の常緑樹もすべて失われていたので、山吹を植え始めたころは夏場の水の世話が大変でしたが、桜の木が大きくなるとともに自然によく殖えるようになってきました。草刈りをする際にヤマブキも誤って刈られてしまいがちなので、補植を絶やさないように気をつけました」。こうした息の長い取り組みで、2008年には国の「平成の名水百選」に選ばれ、これを機に町内の団体でつくる「玉川の名水を守る会」が新たに植樹するなど、黄金の輝きは増してきている。

  上流の橋本橋から北へ山背(やましろ)古道をたどって椿坂に抜けると「まちづくりセンター」があり、休憩したり、タケノコの加工品など地元の特産品が買えるが、何より地域の歴史や名所に精通した地元の年配の方の話を聞けるのがありがたい。「ここから3里ほど行った大正池という広いため池が決壊したことで被害が大きくなり、下に住んでいた知り合いが何人も亡くなりました」という年配の女性は「規模は違っても、今回の大震災のニュースを聞くと人ごとのように思えませんでした」と話した。

  
◇地蔵禅院の枝垂桜は円山公園の木の叔父

 小野小町塚から、諸兄を祀る玉津岡神社下の高台にある地蔵禅院(曹洞宗地蔵院)に上がると、鐘楼わきに見事な枝垂(しだれ)桜が立つ。玉川のソメイヨシノより花期が早くすでに葉桜となっていたが、ほのかに薄紅色を残している。この桜は京都・円山公園の先代の枝垂桜と同じ株から分かれた兄弟で、現在の円山公園の桜の叔父に当たる名木。徳川吉宗の時代の享保12年(1727)の植樹だから樹齢280年を超える。鐘楼の下の広場に仲良く並んだ枝垂桜はこの桜の子で、日露戦争の翌年の1905年に凱旋記念として植えたという。毎春の花の命は短くても、樹の命は長い。大水害の翌年、復興の願いを込めて蜷川知事から託されて植えたソメイヨシノは本堂の屋根を超えて成長していた。

 地蔵院の境内からは木津川の向こうへ南山城の田園が広がっている。諸兄の子孫の橘氏は結局、藤原氏との権力争いに敗れ、別荘も氏寺も消えて史蹟に名残りを留めるだけだ。しかし、諸兄ゆかりの山吹をはじめ木々は代を重ねながら玉川の春を彩っている。

  

 
    (文・写真 小泉 清)