*もうひと足*  牧野富太郎の足跡よみがえる                            

神戸の牧野富太郎の研究所跡 会下山遊園の碑を眺めて西へ折れると、意外な“史跡”を発見した。「牧野富太郎 植物研究所跡」と刻まれた本の形の石碑=写真左。「花在ればこそ吾れ在り」という彼のことばも復刻されている。建物を模したような休憩所もあり、誰もが知っている植物学者・牧野富太郎とこの地のかかわりについて説明している。第一次大戦中の大正5年(1916)に研究費がかさんで生活に困窮した牧野が標本を売却しようとしていることを知った神戸の資産家池長孟が牧野に援助を申し出、所有していた建物を池長植物研究所として標本の展示や研究拠点にしたという。

 現実には池長の関心が南蛮紅毛美術へに移ったことなどから二人の間にはすれ違いができ、昭和16年には標本が牧野に返還され、研究所は公開されないまま閉鎖されている。それでも「援助の手を差し延べた池長孟らがいなかったら植物標本も残せず、世界の植物学者牧野富太郎はなかった」と、神戸時代の牧野の足跡を研究してきたた白岩卓巳さんは著書で強調している。

 私は一昨年暮れに高知市の高知県立牧野植物園の展示で、南蛮紅毛美術収集で有名な池長と牧野とのかかわりについて知ったが、その研究所の跡が会下山にあるとは思ってもいなかった。

 建物のイメージを生かしたような休憩所横には、スエコザサが植えられている。牧野が昭和2年に仙台で見つけた新しい種で、生活面で支えながら翌年亡くなった妻の寿衛子に感謝を込めて名づけたササだ。また牧野が神戸に来た時の常宿として池長が建てた坂の下の「会下山館」の石の門柱=写真右=も置かれていた。
 
 私が住んでいた昭和50年代には、こうした牧野ゆかりのモニュメントを見た記憶がないので、いつどのように整備されたのか山中敏夫さんに尋ねた。「県工から会下山に上がって来る時に見た研究所の建物はよく覚えています」という山中さんは、神戸市の小学校長などを務めていた白岩さんらと力を合わせて会下山での牧野の足跡の復元に取り組んできた。

 平成になって研究所跡を示す石碑がまず建てられ、震災後は復興のまちづくりの中で地元の動きが高まってきた。スエコザサは会下山町内の牧野ファンや高知県出身の人が中心となって牧野植物園から寄贈してもらい、震災から10年の平成17年にここに植えた。 「会下山館」の門柱は地震で倒壊、がれき処理の中で一時行方不明になっていたが、後になって小野市の処分地で見つかり、昨年秋に左側が研究所跡、右側が会下山館近くの川池公園に戻ってきた。

 山中さんは「地元だけでなく役所の職員の中にも牧野ファンが多く、熱心に取り組んでくれました」と話す。牧野が会下山を拠点に六甲山をはじめ近畿各地で実地指導や講演会を重ねて植物愛好者のすそ野を広げたから、没後何年たってもファンが絶えないのだろう。

 「遠くから訪ねてくる植物好きの人や、ハイキングや史跡巡りのコースに組み込んでいるグループも増えているようです」と山中さん。桜だけでなく94種類の植生が見られる会下山は牧野富太郎を学ぶのにふさわしい場所に違いない。


 [ 参考図書 ]
白岩卓巳「牧野富太郎と神戸」2008、神戸新聞総合出版センター

                                                 →本文のページへ戻る